2014年12月18日木曜日

悪魔のしるし:演劇《わが父、ジャコメッティ》―虚と実のトポロジー―

劇団 悪魔のしるし:公演《わが父、ジャコメッティ》
京都国際舞台芸術祭2014
2014年10月16日(木)
京都芸術センター講堂

 
劇場に入ると、既に3人の俳優がなにやら雑談している。観客がまだ入場中の場内はざわついているので、耳をそばだててもその小声は何を話しているのかはっきりと聞き取れない。だが、それはオーケストラの音合わせのような、期待感で胸が膨らむ時間でもある。じきに観客が全員着席し静まってくると、舞台上の柱時計が開演の午後8時を告げる。その瞬間、我々は現実の時間から演劇の時間へとするりと滑り込んだ。
 この導入部は、この劇が現実と地続きであることを暗示している。しかも舞台上では、3人の俳優がそれぞれ、登場人物と自分自身を同時に演じるという入れ子構造が展開される。主宰の危口統之は矢内原伊作を演じると同時に演劇人である自分自身も演じる。木口敬三はアルベルト・ジャコメッティを演じると同時に画家である自分自身も演じる。大谷ひかるはジャコメッティの妻を演じると同時にミュージカルの研究生である自分自身も演じる。おまけに、木口敬三と危口統之とは現実の親子でもある。
 劇のストーリーもジャコメッティと矢内原の筋立てと、現実の画家である父親と演劇人である息子の物語が交錯する。その上、舞台の造り込みにしても、ジャコメッティでもある木口敬三が油絵を画くと、その手元が舞台のスクリーンに映写されたり、俳優の台詞が同時に字幕としてスクリーンに映し出されたりする。それも、日本語と英語、日本語とフランス語が交互に投影される。
 このように虚実の二重構造が折り重なり錯綜すると、そもそも3人の俳優がセリフをしゃべっているのか、それとも単に自分自身として語っているだけなのか、見る方も混乱してくる。そうした本人性の揺らぎが危口のねらいなのだ。
 しかも、今回の演目はもし木口敬三が亡くなれば、このシナリオでの再演は厳密には不可能となる。そうした一回性もこの演劇の構造をさらに捻じれさせている。生身の俳優が一回性を生きながら、テクストという虚構を演じているわけだ。その両面がまるでメビウスの輪のように入れ替わりながら、しかも切れ間なく連続する舞台となっている。
 悪魔のしるしという劇団そのものが演劇の分野だけでなく、建築やファッションなど様々な分野にわたる専門家の集団である。彼らの代表作《搬入プロジェクト》は、何の役にも立たない巨大な物体を、それが入るか入らないかぎりぎりの入口から建物の中に運び込む。模型で入念に何度も確認した後、観客がお祭り騒ぎさながら見守る中、搬入する。いうなれば、このパフォーマンス自体が虚構の物体を現実という建物の中に、はみ出さないスレスレで押し込むという隠喩になっている。
 60年代後半から70年代初期のアングラ演劇において多用された構造、ラストシーンで一気に舞台と外界を地続きにする屋台崩しに対比すれば、《わが父、ジャコメッティ》は開幕冒頭から最後までずっとテントが開きっ放しになっている芝居だといえる。


 
egg:武藤 祐二

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