2014年11月10日月曜日

華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある ~ヨコトリと、その周辺で

2014年8月1日11月3日
横浜美術館+新港ピア他
生きものの記録(黒澤明)/ 1955
 2014年9月5日
 ウィルあいち・ウィルホール
2014年7月5日9月15日
神奈川県立近代美術館鎌倉別館

2011年を経た現在の日本人が忘れたもの、それを思い出させるのは芸術の力だけなのかもしれない。政治、経済を取り巻くグローバル化のうねりは、正義とは、人間とはという哲学を我々から忘れさせている。大国の論理、武装した国の圧力、宗教を取り込んだ殺戮を目の当たりにする今、何かが地球に生きる者に静かに迫りつつある。我々にもう一度立ち止まり、その何かを考えさせてくれる、アートの体験には確かな力があった。

ヨコハマトリエンナーレのテーマにある「華氏451」は1953年のレイ・ブラッドベリ作SF小説、のちにトリュフォー監督によって映画化もされた。時代は近未来、時の治世者は民衆の思考停止を図るべく、世の中から書物を焼き捨てようというのだ。人間の大切な、長い歴史における知の結晶が彼らの都合で葬られ、抵抗する者は容赦なく抹殺される。

 地震国での原発の危険を知りながら、廃棄物の処理方法も見いだせないまま、再稼働を決定する。他国に原発や武器を輸出する。二度の原子爆弾の脅威を知り、平和憲法、言論の自由を戦後民主主義は拠り所としてきたはずなのに、議論も熟さないまま法律が変えられる。そして今、日本人は2011年に経験した感覚も忘れ去ろうとしているのか。今だけを生き延びるではあまりにも無責任すぎる。自分たちの国の権益だけを主張していては、いずれ人類は滅びる。目に見えない大切なものや小さな声が追いやられていく。

フランスのルイ15世の公妾で、贅の限りを尽くしたと言われるポンパドゥール夫人が述べた、「我の亡き後に、洪水よ来い」。これは新港ピア会場に展示されていた、メッセージである。

新港ピア会場(chapter11 忘却の海に漂う)に入ってすぐに写真家土田ヒロミの「ヒロシマ」をめぐる3つのシリーズがある。なかでも長田新の編著書『原爆の子』(1951)に被爆体験記を寄せた子どもたちのその後を追った《ヒロシマ19451979/2005》はそのテキストと写真で、過去と現在を同一画面上に構成したものだ。なかには「撮影拒否」と書かれたものや後ろ姿を撮ったものもあり、当時の彼らの心情を正確に映し出している。過去を心の奥底にしまい込み、父、母として、夫、妻として、ごく普通の一人として生きて働く、それぞれの生活者の歴史を見る。時の流れの中で風化しようとしている記憶を土田の写真は私達の心にピン止めするかのようだ。

神奈川県立近代美術館鎌倉別館で「ベン・シャーンとジョルジュ・ルオー展」が開催されている。震災の年から翌年にかけても「ベン・シャーン展」が福島、名古屋などで開催され、「第五福竜丸」を主題とする《ラッキードラゴン》などに彼のジャーナリズムの神髄を見た。彼の平らかな目は、常に弱者を映すことで人間の尊厳を強く訴える。
さらに今月、あいち国際女性映画祭2014で黒澤の1955年作《生きものの記録》が上映された。黒澤の映画の中ではあまり知られていないが、奇しくもアメリカの水爆実験直後に同じ「第五福竜丸」を主題として映像化した作品だ。ストーリーは主人公が(35歳の三船敏郎が70歳の老人役を演じている)当時日本にも害が及ぶと言われた水爆から逃れるために自分の一族郎党を引き連れてブラジルへ移民しようとするものだ。財力に物を言わせ、自分たちだけが助かる道を探る、これもまた人間のなせる業。だが、誰からもその考えを理解されず、精神を病んでいく。黒澤の生の人間の描き方はモノクロ映像を通すことで、より強く現在の我々に迫る。

 ヨコハマトリエンナーレ、ベン・シャーン、黒澤と、私たちが忘れてはいけないもの、そして考えを停止させられ、行動を阻止させられようとしていることをアートの力によって投げかけている。受け取るか、忘却するかは観る者の感性に任されている。

                               egg:三島郁子

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