2014年11月30日日曜日

もみじ葉を 風にまかせて見る風景 菱田春草展

菱田春草展
東京国立近代美術館
2014年9月23日~11月3日


 人生を四季にたとえるなら、春はただその存在だけでも美しく輝くが、未熟さゆえにもがき迷える修行の時代。夏は依然失敗などしながらも、その情熱とあふれるエネルギーで突き進み、秋は過ぎ去りし日々を愛しく思いながら、人生の美しさを思いやれる時。そして冬はたくさんの思いを胸に次の時代へとつなぐ仕事をし、春の訪れを思い描く穏やかな時。そうありたいと願い、秋をひしと感じる十月、紅葉の色鮮やかな季節に「生誕140年 菱田春草展」を訪れた。自然の美しさ、季節の移ろいを詩情豊かに描いた日本画を見ることで、現代を生きる我々に、忘れかけた自然へと促してくれる。菱田春草の《四季山水》、《落葉》を体感することは、自分が日本の自然の中で生きる一人であることを気づくことでもあった。描かれた四季の花鳥・風景に、古の和歌を思い浮かべる。

奥山に 紅葉ふみわけ 泣く鹿の こゑきく時ぞ 秋は悲しき(古今集・よみ人知らず)


 春草が活躍した明治後半期、日本画壇はフェノロサが理論化し、岡倉天心が実践した「新しい日本画」のための革新運動の流れの中にあった。彼はその時代を反映し、西洋諸国に対しても日本画の芸術性を高めていくことを真摯に求め、試作し続けた。したがって、春草は自身が学んだ東京美術学校時代の校長であった天心の理念を体現した重要な芸術家の一人であると言える。生涯の師となる天心は東京美術学校の内紛を経て、日本美術院を創立するが、その時春草は天心に随い、横山大観、下村観山らと運命を共にした。それにより美術学校の教師の職も解かれ、絵筆だけでの極貧の生活を強いられることになる。ストイックなまでに崇高な理念に基づき絵画の新しい境地を探求し続けたが、現実には栄養状態も悪く、腎臓炎を患い、画家の生命線である目の網膜症をも引き起こし、その死を早めたとも言われている。
 次にその実験的とも言われた絵画探求の変遷を展示のテーマごとにたどってみる。第一期の「考えを描く」時期には、東京美術学校の卒業制作となった太平記をモチーフにした《寡婦と孤児》がある。時代は日清戦争終結間もない頃で、戦争の悲惨さを目の当たりにしての反戦の意思表示でもあった。春草は、狩野派とその基をなす、雪舟を中心とする室町水墨画の影響を受け、終生雪舟に私淑した。また古名画の複写なども行い、狩野派の最後の巨匠、橋本雅邦の試みた合理空間の処理や洋画の画面構成の示唆なども学んでいる。さらに円山派、大和絵とさまざまに吸収する中で描いた《枯華微笑》、《水鏡》などは、構図・モチーフを宋・元など中国画から取り、日本画の特性であった線描を重視しながら描いている。第二期は「朦朧体」と呼ばれた時期である。天心や大観とともに移り住んだ五浦での生活の中で、空気や光線を描き、独自の遠近感を出し、日本画特有の線描を否定した。その代表となった《寒林》は朦朧体の画期的な作品で、テーマは山水画だが、西洋画の遠近法を取り入れ、墨の濃淡だけで対象の立体化に成功している。天心は《釣帰》、《暮色》は詩のような味わいがあると評価している。しかし、この時期の新しい試みは、従来の日本画画壇から酷評され、「朦朧体」と揶揄されたのだった。次の第三のステージは色彩研究の時期。インドへ半年、アメリカからヨーロッパへ一年半と旅をすることで作風が大きく変化している。当時の西洋画における自然派の影響を受けての点描技法が見える《賢首菩薩》や補色の配置や筆触の強調で大胆に描かれた《春丘》、《夕の森》。この旅のあとに大観との共著『絵画について』の中で春草は「色は直感に訴えるもの。絵画は色彩にある」と述べている。西洋の顔料も積極的に取り入れるなどして作られた新たな日本画の誕生であった。そして最後が春草の代表作と言われる《落葉》、《黒き猫》を生む晩年期。《落葉》シリーズは江戸琳派の影響を受け金地で平面性を主張し、それに負けない構成の大胆さとなっている。《落葉》のクヌギの葉のように虫食いまで忠実に描く写実性、構成の大胆さに見られる装飾性が印象的で、春草のたどり着いた新しい境地であった。また、この時期の病気との闘い、失明の恐怖の中で表わされた静かな自然は、彼の心象風景と言える。

もみぢ葉を 風にまかせて 見るよりも はかなきものは 命なりけり(古今集・大江千里)

 あまりにも早い冷静な天才画家の死を、天心は次のように述べている。
「彼は仏画抔も写して大分古画の研究も積み近ごろ漸く自分の境地に入った処だったのに惜しいことをした。境涯に入った丈けだから勿論未だ成熟はして居ない」と。その不熟とは、「今日成熟する人は心細い。大体の問題が未だ成熟してはならぬ様に出来て居るからである」で、絶えず知的探求を止まなかった春草の魂への最高の追悼とも言える。たしかに、《落葉》は秋の深まりを描き、人生のもっとも充実した美しさを謳歌するようで、それは晩年にふさわしいのかもしれないが、四季を描いた春草には冬というさらに精神性を高めた境地を表わしてほしかった。少年の面影を残し36歳で逝った革新の画家にオマージュを贈りながら、未完成であった「美人画」の域を発展させていっただろうかと想像を膨らませる。春草は東洋の中で生まれた日本画を、古代からの霊性を伴う精神性から育まれた日本人の感性で表現し、それを世界へ伝えようとした。その理念は天心の『茶の本』に表されているような当時の西欧化一辺倒への危惧からの、日本人としての誇り、清貧を貴しとするまでの崇高な精神性の主張だろうか。春草は絵画で師の理念を突き進み、模索し続けた。彼の新しい日本画への挑戦は大観はもちろん、その後新しい日本画の境地を開いた平山郁夫など多くの画家たちに確実につながるものがあった。
 会場から東京駅へと皇居のお堀沿いを歩くと風の冷たさが心地よく、春草の絵の残像が、秋の深まりを一層愛おしく思わせてくれた。



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