2014年12月22日月曜日

春の祭典 F/T

白神ももこ(演出・振付)×毛利悠子(美術)×宮内康乃(音楽) 《春の祭典》
2014年11月12日
東京芸術劇場プレイハウス
フェスティバル/トーキョー


 《春の祭典》は、ロシア人音楽家のストラヴィンスキーが作曲したバレエ音楽である。振付家の中には「いつかこの作品に挑みたい」と目標の一つに掲げている者も少なくないだろう。人間が古代から行っている祭や儀礼、神との関係をよきものとするため捧げられるいけにえ。そのためのいけにえ選びなど社会の仕組みをあぶり出すような物語性や、人間が何処から来たのかを探るような神秘性が、創作する者や鑑賞する者を魅了しているのだろう。やりたい作品を自由にできるわけではない現代の舞台芸術の創作環境の中で、タイミング良くこの作品に挑む機会を与えられるというのは名誉だと言えるかもしれない。しかし、これまでに発表されてきた偉大な人物たちの振付と否応なく比較されるのだから、彼らはさながらいけにえになったような気分を味わっているのではないだろうかと、このお節介な鑑賞者は想像するのである。
 今回の“春祭”は近未来の日本を想定して創られていた。毛利悠子の舞台美術は、実際に高速道路で使用されていた大きな電灯が何本か斜めに置かれており、破壊されたのか退廃したのか、終末的な印象を与える。「開演します」のアナウンスのあと、客席のあちこちからダンサーが発する動物の鳴き声が聞こえてくる。開演すれば消されるはずの客席照明はそのまま、通常体験する開演とは逆に舞台上の照明が落ちる。闇に没するはずだった自分の姿が照らされたままで、得体のしれない動物たちに見られているというちょっと不安感に襲われる。荒廃した街を自然界の者たちが取り戻しにきたのだろうか。やがて《春の祭典》が流れ出すのだが、荘厳な音楽とは裏腹に、登場する踊り手は街で見かける高校生のような着崩したブレザー姿。ビニル製のチープな花で埋め尽くされた花笠を頭につけ、まるで外国人が抱く間違った日本のイメージを具現化したようである。しかしそれは外国人からの目線ではなく、今ある「伝統の祭り」は、千年後の日本人からみてもこのように映る可能性があることに気づかされる。中盤には、桃太郎の話を学芸会のように披露する場面があるが、ひょっとすると農村舞台などで村人によって演じられる演目もこんなふうになっているのかもしれない。時間の流れに対する恐ろしさを感じた。
 全体を通して従来の《春の祭典》から想像するような踊りによって神仏をあがめる儀礼的要素や集団における意思決定の不気味さ、肉体を捧げるという残酷さを大々的に打ち出すという演出ではなかった。それは逆に、現代の日本における人間関係の希薄さにおいてリアルであったように思う。“今”を定点として近未来の祭典といけにえを想像したという点において、「2014年の振付家は《春の祭典》についてこのように取り組んだ」という足跡をつけたのではないだろうか。



egg:やすい友美

2014年12月21日日曜日

森下真樹×束芋 《錆からでた実》

森下真樹×束芋 《錆からでた実》
2014年11月8,9日
京都芸術劇場 春秋座


 
 森下真樹(舞踏家)と束芋(現代美術家)のコラボによる、コンテンポラリーダンス作品《錆からでた実》の公演が、京都造形芸術大学内にある京都芸術劇場・春秋座で行われた。振付は森下、舞台美術は束芋、構想はふたりで行い、ダンサーは、きたまり、川村美紀子と森下の3名だ。初演は、昨年、東京の青山円形劇場だが、舞台構造がかなり異なっていたので、今回に向けて若干の作品修正もあったようだ。
 森下は、これまで映像を作品の中に取り込んだ事はなかったが、束芋とは、年齢や家族構成(3姉妹)等が同じことから交流が始まり、映像を入れた舞台に挑戦するに至った。束芋も振付家とのコラボは2回経験しているものの、従来作品のアレンジに留まっており、構想からつくり始めるのは今回が初めてだ。また、ダンサーの2人は、共にコレオグラフィーや横浜ダンスコレクション等の受賞者というこの個性派集団。森下はどの様にまとめ上げるのか。《錆からでた実》は、全てがチャレンジなのだ。
 公演の開始早々、カーテンが上がり始めると、3人のダンサーの足だけが見える高さで止まる。足だけを見せるダンスが始まる。しかしカーテンの上には、ダンサーの上半身に見える映像が映し出されており、本当の人影であるかの様に足元と連動した動きを見せる。後半部分でも、映像が映った背景の後ろにダンサーが入ると、その映像の中に人影が映し出され、まるで人が動き回っている様に見える。この様に映像が、ダンスと密接な関係で制作されているのは、あまり例が無いと言ってもいいだろう。
 映像は、通常、ダンスを引き立たせる役目になるが、束芋の場合、ひとつの作品として成立する程の強烈な個性と完成度を持っている為に、ダンスそれ自体を飲み込んでしまう危険性も孕んでいる。舞台を見ていると、激しく踊るダンサーに目が釘づけになっていたり、鮮やかな映像に目を奪われたりと、ダンスと映像の間を視線が行きつ戻りつしているのに気づく。だが、3人のダンサーのパワー溢れる動きの前では、心配は無用であった。むしろ、束芋の映像の持つ存在感が、ダンスと激しくぶつかり合う事で、作品全体の熱気を倍増させる事になった。
ダンサー3人は、まるで3姉妹だ。3人の群舞を見ていると、長女(森下)の振付で、要領良しの次女(きたまり)とやんちゃな三女(川村)をうまくまとめ上げている様に見える。この長女なしでは、これだけ個性の強い人の集りを制御できないのではと思わせる。ダンスは、群舞とソロの両方が演じられ、ソロの時は、それぞれのダンサーにかなり自由度が与えられていた様だ。川村などは、いつもの激しい動きが戻り、舞台狭しとばかりにパフォーマンスを見せつける。遂には、舞台下の観客席前のスペースで踊り出すほどで、殆ど暴走と表現してもよいかもしれない。しかし、これも森下の振付の想定内の事なのだろう。計算された動きの群舞と自由奔放なソロが、対比をなして、重層的なパフォーマンスとなっている。
 この作品のタイトル《錆からでた実》は、何やら奇妙な言い方だ。その意味するところは、「身から出た錆」の『錆より更にその先に、実がある』(苦しんだからこそ、その先に何かがある)という希望なのだそうだ。公演を見た限り、彼女達は確実に、いくつもの実りを収穫したと言える。




2014年12月18日木曜日

悪魔のしるし:演劇《わが父、ジャコメッティ》―虚と実のトポロジー―

劇団 悪魔のしるし:公演《わが父、ジャコメッティ》
京都国際舞台芸術祭2014
2014年10月16日(木)
京都芸術センター講堂

 
劇場に入ると、既に3人の俳優がなにやら雑談している。観客がまだ入場中の場内はざわついているので、耳をそばだててもその小声は何を話しているのかはっきりと聞き取れない。だが、それはオーケストラの音合わせのような、期待感で胸が膨らむ時間でもある。じきに観客が全員着席し静まってくると、舞台上の柱時計が開演の午後8時を告げる。その瞬間、我々は現実の時間から演劇の時間へとするりと滑り込んだ。
 この導入部は、この劇が現実と地続きであることを暗示している。しかも舞台上では、3人の俳優がそれぞれ、登場人物と自分自身を同時に演じるという入れ子構造が展開される。主宰の危口統之は矢内原伊作を演じると同時に演劇人である自分自身も演じる。木口敬三はアルベルト・ジャコメッティを演じると同時に画家である自分自身も演じる。大谷ひかるはジャコメッティの妻を演じると同時にミュージカルの研究生である自分自身も演じる。おまけに、木口敬三と危口統之とは現実の親子でもある。
 劇のストーリーもジャコメッティと矢内原の筋立てと、現実の画家である父親と演劇人である息子の物語が交錯する。その上、舞台の造り込みにしても、ジャコメッティでもある木口敬三が油絵を画くと、その手元が舞台のスクリーンに映写されたり、俳優の台詞が同時に字幕としてスクリーンに映し出されたりする。それも、日本語と英語、日本語とフランス語が交互に投影される。
 このように虚実の二重構造が折り重なり錯綜すると、そもそも3人の俳優がセリフをしゃべっているのか、それとも単に自分自身として語っているだけなのか、見る方も混乱してくる。そうした本人性の揺らぎが危口のねらいなのだ。
 しかも、今回の演目はもし木口敬三が亡くなれば、このシナリオでの再演は厳密には不可能となる。そうした一回性もこの演劇の構造をさらに捻じれさせている。生身の俳優が一回性を生きながら、テクストという虚構を演じているわけだ。その両面がまるでメビウスの輪のように入れ替わりながら、しかも切れ間なく連続する舞台となっている。
 悪魔のしるしという劇団そのものが演劇の分野だけでなく、建築やファッションなど様々な分野にわたる専門家の集団である。彼らの代表作《搬入プロジェクト》は、何の役にも立たない巨大な物体を、それが入るか入らないかぎりぎりの入口から建物の中に運び込む。模型で入念に何度も確認した後、観客がお祭り騒ぎさながら見守る中、搬入する。いうなれば、このパフォーマンス自体が虚構の物体を現実という建物の中に、はみ出さないスレスレで押し込むという隠喩になっている。
 60年代後半から70年代初期のアングラ演劇において多用された構造、ラストシーンで一気に舞台と外界を地続きにする屋台崩しに対比すれば、《わが父、ジャコメッティ》は開幕冒頭から最後までずっとテントが開きっ放しになっている芝居だといえる。


 
egg:武藤 祐二

2014年12月16日火曜日

ルイス・ガレー振付《Mental Activity》―物体と関わる身振り。テクスト化する身体―

ルイス・ガレー:振付《Mental Activity》
京都国際舞台芸術祭2014
2014年10月11日(土)
京都芸術センター講堂



《Maneries》で洗練されたミニマムな身体表現を追求したルイス・ガレー。今回、《Mental Activity》では一転、粗暴なまでに生々しい舞台を提示した。
 暗い会場に入ると、ちょうど観客の目の高さからのライトに照らされて、舞台だけが浮かび上がっている。墨があちこち塗りたくられ、水もまき散らされており、それらが導線となって何かが起こりそうな不穏な予兆が漂う。
 すると突然、周囲の暗闇から舞台に投げ込まれる、ネックレスひとつ。それを合図に、ペットボトル、ボール、長靴、ハイヒール、自転車のサドル、土管、タイヤ、レンガ、岩、発泡スチロール、丸太等々、ありとあらゆる大量のガラクタが次々に投げ込まれる。たちまち舞台一面ガラクタで埋め尽くされ、足の踏み場もないゴミ捨て場と化す。こんな場所でダンサーは本当に踊れるのかと訝しく思えるほどだ。
 4人のダンサーが静かに登場する。一呼吸あって、ひとりのダンサーがガラクタの中を走り抜ける。次はふたりが肩を組んで、さらには3人が肩を組んで、その次は4人全員が肩を組んで倒れ込むように疾走する。怪我もせんばかりに、ガラクタの中を駆け抜ける。
 次に、女性ダンサーが手を使わず、頭を付けて丸太を押し動かす。そしてゆっくり丸太を立てる。そのあと、4人がそれぞれ、手当り次第にガラクタと戯れる。石を持ち上げ、レンガを投げ上げ、綱で縛ったコンクリートブロックを振り回し、土嚢を口でくわえ上げる。ブリキ缶をなめ、フェルトペンで腕に線を引く。綱を引き合う、長い木の枝の両端をふたりのダンサーが双方の頬だけで落ちないように支え合いながら静かに移動する等々、雑多でプリミティブな行為を繰り広げる。音楽は最初かすかな地響きのようなサウンドが徐々に大きくなるという単純なもの。そのことがかえって、観者をダンサーの動作だけに集中させている。

 素手のときのダンサーの身振りは言語以前のイメージにとどまる。それに対し、ピナ・バウシュのタンツテアターにしばしば見られるが、物体と関わって踊る身体はある種のテクスト性を帯びる。物質と身体が織りなす交点に意味が立ち上がる。ガレーは「精神の働きは極めて物質的」と語る。題名の《Mental Activity》を訳せば「精神活動」だ。ガラクタとダンサーがあたかも交信しているかのようにも、ガラクタを浄化する儀式とも解釈可能であり、肉体、精神、物質が三つ巴となって荒々しい相克の表情を見せる。それは取りも直さず人間の原初的な営みそのものであり、ガレーはその裸形を突き刺さんばかりに我々の眼前に投げ込んだのだ。

2014年12月15日月曜日

archaiclightbody実験目撃メモ

archaiclightbody #3「抱きしめあうと眠りづらい」
2014年10月8日
ユースクエア(名古屋市青少年交流プラザ)プレイルーム


 日が短くなった夕方の住宅街を急ぎながら、この道のりにもすっかりなじんだな、と思った。北区役所に程近い、青少年育成を目的とした名古屋市の施設ユースクエア。その一室「プレイルーム」は、演劇やダンスの発表会などに若者が格安で優先的に利用できる。いかにも行政の運営らしい保守的な健全さにあふれているため、やさぐれた大人には縁遠い場所だが、この2年ほど数カ月おきに行われているコンテンポラリーダンスの公演が見逃せなくて、せっせと足を運んでいる。
 仕掛人は名古屋を拠点に活動するダンスカンパニーafterimage(アフターイマージュ)のメンバーたち。ここではカンパニーとしてではなく、各メンバーが独自に活動を展開している。面白いと思ったダンサーを東京から呼んで公演を主催したり、カンパニー外のダンサーと組んで作品を発表したり。ここは名古屋のダンスシーンを刺激する実験室なのだ。
 archaiclightbody(アルカイックライトボディ、以下アルカイック)は、そんなafterimageの主宰・振付・ダンサーを務める服部哲郎が杉山絵理と結成したダンスユニット。今回、今年の企画第3弾として、処女作(2011年初演)にがっぷり取り組んだ公演を行った。コンセプトは、再演を重ねてきたこの《抱きしめあうと眠りづらい》をさらに「様々な角度からいじり倒す」。
 まずアルカイックによるストレートな再演。そして後半は、今年愛知で結成された男女のデュオSen×Haruが同作品のリメイクを上演した。この作品は小道具が2脚の椅子だけというシンプルな舞台で、メランコリックなピアノが静かに刻むリズムに乗り、一組の男女がコンタクトインプロヴィゼーションの手法をベースに踊る。余計な装飾が無く、踊り手の身体の動き、そして二人の間で生まれる力の動きが主役だ。歩く、止まる、跳ぶ、伸びる、縮む。押す、引く、反発し合う、受け止める、離れる、触れる。それ自体がダンスになっている。いや、そもそもあらゆるダンスがそういう構造だったか、とふと思う。ミニマル過ぎず、親密さと敵対、共感と反発など人と人との間で生まれる感情の機微をまとっていて、日常的な物語に思いを巡らせる幅がある。
 そこから作品に広がりを加えるのは観客だったり、演者だったりする。アルカイックとSen×Haruとでは作品の印象は大きく異なった。アルカイックの場合、二人は恋人同士にも、兄妹/姉弟にも同志にも見えた。観客各々の目に違って映ったはずだし、シーンごとにも変化した。表現がストイックなため、見ていて想像力が働く余地が大きい。一方Sen×Haruは、アルカイックから手渡されたこの作品を恋愛初期の二人の物語として解釈し、提示した。男女の関係の描き方が少し類型的にも見えたが、より表情豊かで演劇性が高い。艶っぽく濃密な一幕を堪能した。
 こうして2組の踊りが並べられることで、《抱きしめあうと眠りづらい》という作品の骨格と魅力が一層見えてきた。また、2つの上演は「Dancer View」という映像の上映を挟んで行われた。服部と杉山がそれぞれ目の横に小型ビデオを装着して踊り、ダンサーの目線から同作品を見せるという試みだ。結局一作品を一晩に3回見たわけだが、全く飽きなかったし、終演後の小さなロビーで自然と顔を合わせることになる出演者に反応を伝えることで、この実験への加担を楽しむこともできた。振付の服部は、この作品にはまだまだ可能性があると話す。この実験を経て今後どう進化していくのかを追っていきたい。



                                                                       egg:神池なお

2014年12月14日日曜日

金氏徹平、横山裕一ほか:ライブペインティング《トレースのヨーカイ》―木に竹を接ぐ。創造的誤解の連鎖―

金氏徹平:展示《四角い液体、メタリックなメモリー》における、ライブペインティング《トレースのヨーカイ》
京都国際舞台芸術祭2014
2014年10月4日(土)
京都芸術センターギャラリー南



“木に竹を接ぐ”という言葉がある。性質の違う物をつなぎ合わせること、転じて、物事がチグハグで前後関係や筋道が通らないことのたとえ。金氏徹平は、日用品や安物の玩具の部品などのガジェット同士の接合を主たる作風としており、文字どおり木に竹を接ぐ趣を呈している。
 ただし、金氏のそれは、同じく脈絡のない物体どうしを組み合わせるシュールレアリズムのデペイズマンとは明らかに違う。デペイズマンは組み合わされた物体それぞれを異化し、観者にイメージの不意打ちを食らわせるのに対し、金氏の作品は双方の物体を同化させ、あるいはその物の用途や意味を無化する。

 ライブペインティング《トレースのヨーカイ》は、金氏の作品群を舞台装置に、4人の造形作家が琳派の創始者俵屋宗達の代表作《風神雷神図屏風》をそれぞれ解釈してトレースするというパフォーマンス。金氏のほか、横山裕一、板垣賢司、森千裕が、屏風状の透明なアクリル板の向こうに風神雷神図屏風の原寸大レプリカを見透かしながら、観衆の目の前でトレースを画いて見せた。
 琳派は、直接師弟関係を結んで系譜となった狩野派とは対照的に、時代を隔てつつも作品をリスペクトすることだけによって引き継がれてきた。ある意味、木に竹を接ぐがごとく、断続してきたものだ。日本絵画史においては、江戸琳派以降、明治に入ってからも、速水御舟、山本丘人、加山又造など日本画家が私淑して連なり、また、永井一正、田中一光などのグラフィックデザインにもその感性が受け継がれるなど、琳派は現代にもアクチュアルな影響を及ぼしている。
 今回、4人の現代アート作家が《風神雷神図屏風》に接ぎ木を試みたという趣向だ。金氏と板垣、森が、わりとオーソドックスにトレースしたのに対し、横山は自身の良く使うキャラクターに大胆に引き付けて変奏した。レイヤーを成しつつも同化する宗達のレプリカと4人のアクリル板上のトレース。おまけに、その様子を写真家の梅佳代がさかんにカメラに収めていたのだが、梅自身もアクリル板越しにさながらトレースの中の人物となっていた。

 そもそも美術史は、木に竹を接いできた歴史であるともいえる。それも誤解による接ぎ木だ。例えば、セザンヌの「円筒形と球形と円錐形」をピカソが誤解しキュビスムが生まれた。カンディンスキーの場合は自分の作品を誤解し純粋抽象絵画に至り、関根伸夫の《位相―大地》を李禹煥が誤解し「もの派」が誕生した。先人の作品の企図を創造的に誤解して、それを受け継ぐ。いわば誤解の連鎖である。ライブペインティング《トレースのヨーカイ》は、そうした誤解の美術史を踏まえた、いわば木と竹の溶解と解すべきだろう。