2014年11月30日日曜日

もみじ葉を 風にまかせて見る風景 菱田春草展

菱田春草展
東京国立近代美術館
2014年9月23日~11月3日


 人生を四季にたとえるなら、春はただその存在だけでも美しく輝くが、未熟さゆえにもがき迷える修行の時代。夏は依然失敗などしながらも、その情熱とあふれるエネルギーで突き進み、秋は過ぎ去りし日々を愛しく思いながら、人生の美しさを思いやれる時。そして冬はたくさんの思いを胸に次の時代へとつなぐ仕事をし、春の訪れを思い描く穏やかな時。そうありたいと願い、秋をひしと感じる十月、紅葉の色鮮やかな季節に「生誕140年 菱田春草展」を訪れた。自然の美しさ、季節の移ろいを詩情豊かに描いた日本画を見ることで、現代を生きる我々に、忘れかけた自然へと促してくれる。菱田春草の《四季山水》、《落葉》を体感することは、自分が日本の自然の中で生きる一人であることを気づくことでもあった。描かれた四季の花鳥・風景に、古の和歌を思い浮かべる。

奥山に 紅葉ふみわけ 泣く鹿の こゑきく時ぞ 秋は悲しき(古今集・よみ人知らず)


 春草が活躍した明治後半期、日本画壇はフェノロサが理論化し、岡倉天心が実践した「新しい日本画」のための革新運動の流れの中にあった。彼はその時代を反映し、西洋諸国に対しても日本画の芸術性を高めていくことを真摯に求め、試作し続けた。したがって、春草は自身が学んだ東京美術学校時代の校長であった天心の理念を体現した重要な芸術家の一人であると言える。生涯の師となる天心は東京美術学校の内紛を経て、日本美術院を創立するが、その時春草は天心に随い、横山大観、下村観山らと運命を共にした。それにより美術学校の教師の職も解かれ、絵筆だけでの極貧の生活を強いられることになる。ストイックなまでに崇高な理念に基づき絵画の新しい境地を探求し続けたが、現実には栄養状態も悪く、腎臓炎を患い、画家の生命線である目の網膜症をも引き起こし、その死を早めたとも言われている。
 次にその実験的とも言われた絵画探求の変遷を展示のテーマごとにたどってみる。第一期の「考えを描く」時期には、東京美術学校の卒業制作となった太平記をモチーフにした《寡婦と孤児》がある。時代は日清戦争終結間もない頃で、戦争の悲惨さを目の当たりにしての反戦の意思表示でもあった。春草は、狩野派とその基をなす、雪舟を中心とする室町水墨画の影響を受け、終生雪舟に私淑した。また古名画の複写なども行い、狩野派の最後の巨匠、橋本雅邦の試みた合理空間の処理や洋画の画面構成の示唆なども学んでいる。さらに円山派、大和絵とさまざまに吸収する中で描いた《枯華微笑》、《水鏡》などは、構図・モチーフを宋・元など中国画から取り、日本画の特性であった線描を重視しながら描いている。第二期は「朦朧体」と呼ばれた時期である。天心や大観とともに移り住んだ五浦での生活の中で、空気や光線を描き、独自の遠近感を出し、日本画特有の線描を否定した。その代表となった《寒林》は朦朧体の画期的な作品で、テーマは山水画だが、西洋画の遠近法を取り入れ、墨の濃淡だけで対象の立体化に成功している。天心は《釣帰》、《暮色》は詩のような味わいがあると評価している。しかし、この時期の新しい試みは、従来の日本画画壇から酷評され、「朦朧体」と揶揄されたのだった。次の第三のステージは色彩研究の時期。インドへ半年、アメリカからヨーロッパへ一年半と旅をすることで作風が大きく変化している。当時の西洋画における自然派の影響を受けての点描技法が見える《賢首菩薩》や補色の配置や筆触の強調で大胆に描かれた《春丘》、《夕の森》。この旅のあとに大観との共著『絵画について』の中で春草は「色は直感に訴えるもの。絵画は色彩にある」と述べている。西洋の顔料も積極的に取り入れるなどして作られた新たな日本画の誕生であった。そして最後が春草の代表作と言われる《落葉》、《黒き猫》を生む晩年期。《落葉》シリーズは江戸琳派の影響を受け金地で平面性を主張し、それに負けない構成の大胆さとなっている。《落葉》のクヌギの葉のように虫食いまで忠実に描く写実性、構成の大胆さに見られる装飾性が印象的で、春草のたどり着いた新しい境地であった。また、この時期の病気との闘い、失明の恐怖の中で表わされた静かな自然は、彼の心象風景と言える。

もみぢ葉を 風にまかせて 見るよりも はかなきものは 命なりけり(古今集・大江千里)

 あまりにも早い冷静な天才画家の死を、天心は次のように述べている。
「彼は仏画抔も写して大分古画の研究も積み近ごろ漸く自分の境地に入った処だったのに惜しいことをした。境涯に入った丈けだから勿論未だ成熟はして居ない」と。その不熟とは、「今日成熟する人は心細い。大体の問題が未だ成熟してはならぬ様に出来て居るからである」で、絶えず知的探求を止まなかった春草の魂への最高の追悼とも言える。たしかに、《落葉》は秋の深まりを描き、人生のもっとも充実した美しさを謳歌するようで、それは晩年にふさわしいのかもしれないが、四季を描いた春草には冬というさらに精神性を高めた境地を表わしてほしかった。少年の面影を残し36歳で逝った革新の画家にオマージュを贈りながら、未完成であった「美人画」の域を発展させていっただろうかと想像を膨らませる。春草は東洋の中で生まれた日本画を、古代からの霊性を伴う精神性から育まれた日本人の感性で表現し、それを世界へ伝えようとした。その理念は天心の『茶の本』に表されているような当時の西欧化一辺倒への危惧からの、日本人としての誇り、清貧を貴しとするまでの崇高な精神性の主張だろうか。春草は絵画で師の理念を突き進み、模索し続けた。彼の新しい日本画への挑戦は大観はもちろん、その後新しい日本画の境地を開いた平山郁夫など多くの画家たちに確実につながるものがあった。
 会場から東京駅へと皇居のお堀沿いを歩くと風の冷たさが心地よく、春草の絵の残像が、秋の深まりを一層愛おしく思わせてくれた。



2014年11月25日火曜日

トヨタコレオグラフィーアワード2014~次代を担う振付家の発掘~

トヨタコレオグラフィーアワード2014~次代を担う振付家の発掘~
ネクステージ―最終審査―
2014年8月3日(日)15:00開演
@世田谷パブリックシアター


 トヨタコレオグラフィーアワードは、次代を担う振付家の発掘と育成を目的に2001年に設立され、本年で9回目を迎えた。8月3日に行われたネクステージでは、203組の応募の中から映像と書類選考で選ばれた6名のファイナリストの作品が上演された。同日に審査委員とゲスト審査委員の討議・投票により「次代を担う振付家賞」1名、観客の投票により「オーディエンス賞」1名が決定。今回のアワードでは、川村美紀子がともに受賞した。
 川村美紀子の作品は憎らしいくらい素晴らしかった。ダンサーの動きは洗練され、照明はストロボ等を使いカッコよく、音響はスタイリッシュ。その一方で、電車がホームに入って来る前に流れるメロディーや地震速報のアナウンスに振りをつけたり、舞台上にラジコンで動くキューピー人形が何体も登場したり、ユーモアも忘れていない。整然と構成された作品のように見せかけておいてハズすところはハズす。そのバランスの良さが観る者を飽きさせず、最後まで惹きつけた。
 ここで注目したいのが “振付”の定義である。審査委員の一人によれば、ダンサーに動きをつけることだけを振付というのではなく、作品全体の構成や演出、照明、音響、舞台美術を考えるのも振付家の仕事の一部と考えられるようになってきたというのである。だが、あくまでそれは個人の意見で、審査委員みながそう考えているわけではないらしく、たしかに審査も難航していた。他の5人の振付作品も、何かしらのポイントで良さがあったことは言うまでもないからだ。
 その一人、コンタクトゴンゾの塚原悠也は、「ダンスの教育や、ワークショップ等を一度もうけていなくても12時間程度の準備で誰でもが再演可能」で「テクニカルな予算もほぼかからないし、リハーサルも必要ない」作品を製作した。誰もができる、どこでもできる振付こそ優れているという視点を提示することにより、“振付とは何か”というアワードの目的自体に一石を投じるものであった。それを排除せずファイナルの場に残しているというのは、われわれ観客も“振付”について考えよ、と問われているようであった。
 どこまでが振付か、どんな振付が優れているのか、結局明確な答えはみつからなかったが、その時代その時代に考え続けることが有意義なことではないだろうか。そもそも芸術作品を競わせるのは難しい。スポーツのように点数を入れればよいという明確な基準がない。あったとしてもそれは個人の基準であり、観る者同士その基準の違いをお互いに探り合うこともまた数字では表せない世界の魅力の一つといえる。今回は、“振付”について考えるきっかけを得たのはもちろん、注目の振付家たちの作品を一堂に観ることができて、一観客としては大変満足であった。


2014年11月23日日曜日

現代アートと能楽と ―能面と能装束展

能面と能装束――みる・しる・くらべる――
2014年7月24日~9月21日
三井記念美術館

 「お能?高尚過ぎてちょっと……」「お経みたいなアレ?」「100%寝る自信がある」―――私はここ数年能楽にはまっているが、周囲の反応は大体そんなところである。文楽や歌舞伎など他の日本の伝統芸能と比べ、誘った相手のテンションは格段に低い。「お囃子がロックなジョン・ケージなんだよ!」などと力説しても、返ってくるのは生返事ばかり。
 そんな能のイメージを払拭する展覧会が三井記念美術館で開かれている。能面と能装束の二本立て、つまり芸能である能楽の生身の部分(演者と実際の上演)と文学性を除き、造形と意匠に焦点を当てたものだ。能面は15点中14点が重要文化財で、金剛流宗家旧蔵の名品を大公開している。
 まず目を奪われるのが、洗練された展示方法だ。奥に長い展示室に入ると、暗い室内にスポット照明で照らされた能面が点々と並んでこちらを向いている。一点一点ガラスケースに入れられ目線の高さに展示されており、面(おもて)が宙に浮かんでいるかのよう。現代美術のインスタレーションのようである。
 展示は呪術性の強い翁面から始まり、尉、鬼神、男面、女面と続き、その多様さ、表情の豊かさを見せていく。無表情なことを「能面のような」と最初に形容したのは一体誰なんだ。そして最初の展示室最奥で一つのクライマックスを迎える。室町時代の女面《孫次郎(おもかげ)》である。
 その面は美しい成熟した女性を演じるための道具として一つの類型となるべく、他の多くの女面同様、抽象の二歩手前くらいまで抑制された造形表現が用いられている。だがよく見ると、モデルとなった女性の癖だろうか? 少しだけ口を歪めて微笑んでいる。やや悪戯っぽいその笑みは、作り手とその女性との親密な関係故なのか? 孫次郎という能役者が若くして亡くなった妻の面影を偲んで打ったという伝承が腹に落ちる。見るほどに、現実に生きた女性の存在を想像させずにはいられないリアリティと個性が浮かび上がっては、抑制された造形に押し戻されて波のように引いていく。写実と抽象の均衡が破れる瞬間と、それが去った後の静けさに魅入られて、いつまでもこの面の前から離れがたかった。
 元々美術ファンである私から見て、能楽はミニマルな舞台セットや演者の動きが見る者の想像力を喚起し、提示される表現を鑑賞者が大きく補うことで成り立つ点が魅力の一つだ。今回の《おもかげ》との対面も同じで、それは知覚をフル稼働して現代美術作品を体験する楽しみとよく似ている。
 しかも600年以上前に成立したこの芸能は、現代の目には突拍子もない新しさも併せ持つ。例えば音楽の面で言えば、無音状態の「間」を無という音として使う。それを知ったとき、ジョン・ケージか!と思わず叫んだが、いやいや、能楽が遙か昔からやっていることなのだ。そうした能の「新しさ」は難解さとして捉えられがちだが、紐解けば単に、自分が西洋近代の基準で考えていただけだったということに気づかされることがままある。能面に話しを戻すと、2012年の愛知県美術館「魔術/美術」展で冒頭に増女の面が展示されたのが今も記憶に新しい。時代や様式の区分を取り払って美術における非合理の要素を紹介したあの展覧会で、《おもかげ》同様高度に洗練されていながら魅入られると取り返しがつかなくなりそうな呪術性を湛えた面によって、一気にその企画テーマの世界に引きずり込まれた。能を過去の遺物と決めつけるのは、近代以降の枠組みで言う新しさやユニークさに囚われていることの裏返しかもしれない。それをやめれば、世界は一層面白くなる。過去は未来と同じくらい未知の存在だとつくづく思う。週末は能楽堂へ行こう。
                                                                       egg: 神池なお






2014年11月20日木曜日

山田純嗣展「絵画をめぐって―理想郷と三遠法」を見て

山田純嗣展「絵画をめぐって―理想郷と三遠法―」
一宮市三岸節子記念美術館
2014年7月19日~8月17日

 この展覧会を反芻していたら、子どもの頃見たアニメ「魔法使いサリー」を思い出した。サリーが樋口一葉の『たけくらべ』を読んで熱中するあまり、小説の世界に入ってしまうエピソードだ。サリーちゃんが現実に戻れなくなったらどうしようと心配しつつも、架空の世界に入っていく物語にたまらなく魅了された。そういえば山田純嗣は、創作の原点の一つとして、キン肉マン消しゴム(キン消し)を使って空想する遊びに熱中した子どもの頃の経験を挙げている。
 今回作家が発表したのは、ここ数年取り組んできた東洋西洋の名画をモチーフとする一連の仕事を、さらに追求した作品。会場には白い壁に白を基調としたパネルが並び、思わず「きれい」という言葉が浮ぶ。描かれているのは雪舟の《天橋立》やミレイの《オフィーリア》、モネの睡蓮シリーズなどで、どれもなじみ深い。
 でもよく見るとそんなに単純ではないのだ。画面内に奇妙な立体感があって独特の奥行きを感じさせる一方、表面には文様や草花、生き物などが白く細い線でびっしり描かれている。画面内に三次元の生きた世界があるようで、思わず吸い込まれそうになるが、危ないところで表面の装飾的な線に押し留められるような気がする。
 いったいどうなっているのかと思わずにはいられないその制作方法は、まずモチーフを石膏で立体物として作り、それを写真に撮影し、その上に銅版画を重ね、さらに部分的に絵を描いてから樹脂でコーティングするという。でもその工程を確認してから改めて作品を見ても、ますます謎めくばかり。二次元が三次元に、そしてまた二次元に……?
 インスタレーション作品がさらに謎を深めている。これまでの平面作品の中で使われた様々な石膏の立体物による、ミニチュアの白い世界。それらを二次元の図像(山田の作品、さらにその基になった名画)として見た記憶が蘇り、同時にその図像から無意識に思い描いていた三次元世界が呼び覚まされる。そして目の前の立体物。同じモチーフがいくつものイメージの層となって重なったり離れたりするうちに、意識が混濁していくかのようだ。
 私は去年、山田が以前からモチーフにしている中世ヨーロッパのタピスリー『貴婦人と一角獣』(1)のオリジナルを見たとき、山田の作品が自分に大きく影響していることに気づいてハッとした。細密に表現された草花や衣装が遠近法を用いずに配された、夢の中のようなタピスリーの絵画空間に、前述したイメージの層を重ねていたのだ。それは二次元とも三次元とも、現実とも仮想とも言い難いリアリティを生み、混濁が覚醒に転じた思いだった。その状態で直後に飛び込んだアンドレアス・グルスキー展(2)では、現代写真と中世の表現が完全に地続きに見え、その面白さといったらなかった。その時考えていたのは、人と視覚的イメージをめぐるあれこれだ。人はどのように物を見ているのか? 人がイメージを作り出し、それを造形物として表現するってどういうこと? そしてそのリアリティとは?
 山田は今回、平面性を特徴とするモネの睡蓮シリーズやポロックのドリッピング絵画にまで題材の幅を広げた。今までどおり「立体化」というプロセスを踏んで。これらを見た経験は、今後私にどう影響するのだろう。また、これまで作品のいわゆる「美しさ」の後ろに潜んでいた、イメージをめぐる思考への作家の貪欲さ、絵画世界に対する追求の際限の無さが露わになり、これからの展開にますます興味を引かれる。
こうした関心は決してアートの世界のマニアックな話に留まらないはずだ。会場のインスタレーションの前では小さな男の子が座り込み、じっと見入っていた。キン消しで遊んでいた頃の作家もこんな風だったのだろうか。

(1) 国立新美術館「フランス国立クリュニー中世美術館所蔵 貴婦人と一角獣」展(会期:2013年4月24日~7月15日)
(2) 国立新美術館「アンドレアス・グルスキー」展(会期:2013年7月3日~9月16日)

                                         egg:神池なお


2014年11月19日水曜日

質感の動きを求めて~ジャン・フォートリエ回顧展

2014年7月20日9月15日
 豊田市美術館
   
 時代とともに変遷し、たどり着いたフォートリエの抽象画はジャズに重なる。
豊田市美術館で没後日本初の「ジャン・フォートリエ」の回顧展が開かれている。代表作と言われる「人質」連作を始め、彫刻・版画を含む90点に及ぶ作品を時系列で見ることができる。1898年生まれのフォートリエは幼少期、アイルランド人の祖母にフランスで育てられ、その後ロンドンの母の元へ行き、のちにアカデミーで学んだ。初期作品は当時のレアリスムの影響を受けた肖像画が並ぶ。緻密な描写だが、そのどれもが人間の内面まで見抜いたような表情。暗い色調も、悲しげで苦悩に満ちた表情を増幅させる。彼の身近な人物を描いているとされるが、それらは実在する人物というより彼の心に映った人々である。
フォートリエの作品はその厚塗りの絵の具の物質感によってイメージを固定するかのような抽象絵画へ変化していく。油彩、紙、顔料などさまざまな材料で質感を求め、ブロンズによる造形にも挑戦した。一連の「人質」作品はゲシュタポに捕えられた人間の極限の姿を質感に投影し、人類の暴力を留めようとしている。
「人質」の連作から一転、戦後描かれるのは明るい色調、平穏を取り戻して《コーヒー挽き》《糸巻き》《鍵》《籠》と生活感のある対象に変わり、《こちょこちょ》《ふとっちょ》と可愛らしいタイトルまである。続く《オール・アローン》はフォートリエのお気に入りのジャズピアニスト、マル・ウォルドロンの曲名から。制作時は絶対的静寂を求め、誰も立ち入らせず、音楽・書籍・風景などの記憶に基づき、絵画に向き合ったという。
戦後、フランスのアンフォルメルの源流と評された彼は、抽象画について「具象に足りない部分がある」から「事物を分析して新たな形象を生み出したかった」と語り、それは「自由に表現することが許されている」ものだという。彼にとっての抽象画は、イメージの質感を動きそのものに託す、すなわち自由に塗り重ねる筆致として表現する自由な精神であり、それはまさにジャズと重なり合う。
スタン・ゲッツ、ジョアン・ジルベルトの(1964年録音)ジャケットはオルガ・アルビズの抽象画だ。戦後に描かれたフォートリエの《無題(四辺画)》《草》などはオスカー・ピーターソン、ジョン・コルトレーンのレコードジャケットにと想像してみる。時代は人種差別や戦争などさまざまな闇を抱えていたが、その中に一筋の光を見出し、打開しようとする精神がある。だが、あくまでも軽くスィングしてかわすようなスタイリッシュな手法だ。晩年のフォートリエも聴いただろうかと思い巡らした。

                               egg:三島郁子


自分だけの一点に ―ジャン・フォートリエ展

ジャン・フォートリエ展
2014年7月20日~9月15日
豊田市美術館

ふと出会った一枚の絵に強く惹かれて、まるで自分だけの作品のように思う、自分だけがその絵のことを分かっているかのように大切に胸にしまっておく――特に美術ファンでなくてもそういう経験がある人は多いと思う。例えば人生の転機に出会うべくして出会ったような作品や、近しい人との思い出と強く結びついた作品。何かの折に誰かがふとはにかみながら、そんな一点について話すのを聞くのが好きだ。
 フォートリエはそんな思い入れを誘いやすい作家の一人だと思う。私自身、20歳前後だったろうか? 何かの本でたまたま見た《人質》シリーズの小さな白黒の図版に強く惹きつけられた。若さ特有の茫洋とした不安と傷つきやすさからまだ抜けきれない年頃で、剥き出しの自我と自傷的な内省が共存するようなそのイメージと、距離がひどく近いような気がしていた。
 それなのにこの展覧会の冒頭、フォートリエがイギリスで美術教育を受けたという解説を読んでハッとした。そうだ、この作家のことをよく知っているような気がしていたけど、何も知らなかった。実際、人気作家にもかかわらず、意外にも今回が日本初の本格的回顧展。創作の軌跡を辿る貴重な機会となった。
 展示は画家が10代を過ごしたイギリスからフランスに戻った1920年代の作品から始まった。全く知らないフォートリエばかりだ。暗めの色調とがっしりした構成の人物画や生物画はセザンヌの影響だろうか。その後スタイルは何度か変化していくが、対象の存在感の重みと、触れていないのに手触りを感じるような堅固なリアリティを絵画空間の中で追い求めた点では一貫していたように見える。
 その努力は、第二次大戦下《人質》の連作として一旦結実する。展示された10点は、確かに絵画であって立体ではないのに、画面から越境して見る側に迫ってくるようなマチエールを持つ。ふと、平和な時代なら全く違う表現になっただろうなと思ったが、造型上追求したもの自体は同じだったに違いない。戦後は抽象性が増し、色調が明るくなって硬質な叙情性が加わったが、やはり初期から通底する要素は同じだと感じた。
 こうして一人の作家の作品を初期から晩年まで辿ることは、出会い頭の一目惚れとは大きく違った鑑賞体験となる。出会い頭の場合は見る側の文脈が主体で、そこに作品が飛び込んでくる。実際、戦後すぐの時代に《人質》が人びとの心を捉えたのもそれと同じなのかもしれない。戦争による精神的・肉体的な傷を抱えた多くの人が、自分のための作品として受け止めた。一方回顧展などでは、見る側の文脈を外して作家と向き合うことになる。それでもフォートリエ作品のなお超然として力強いこと。このように、時を経て自分の環境や持っている知識と経験が変わっても改めて新鮮に受け止められる、一粒で何度でもおいしい作品を知ることは、美術ファンとして格別な喜びだ。
とは言え、「自分だけの一点」に出会った人の多くは、その後も美術館に足繁く通うことはないだろう。それでもその一点を個人の物語と共に胸にしまい、一生の大切な糧として過ごす人は大勢いる。「美術ファン」と括ることすらできないそうした人々にもたらす美術の力が表に出ることは少ないが、その強度に思いを馳せると、やっぱり美術は侮れない。

                             egg:神池なお

2014年11月18日火曜日

札幌国際芸術祭 宮永愛子 《そらみみみそら》

宮永愛子 《そらみみみそら》
札幌国際芸術祭
2014719日~928
札幌芸術の森美術館

 以前、宮永さんの作品を拝見した事があります。長い透明なアクリルのケースの中に、白いナフタリンで作られた時計、ハイヒール、コーヒーカップ等が置かれていました。それらナフタリンのオブジェは、時間の経過と共に徐々に形が崩れていきます。昇華という物理現象が、固体状態にあるものを気体へと変えるのです。短い時間でその変化を目にする事は出来ませんが、1日という時間のスケールで見れば、形あるものが、その姿を失っていく様子がよくわかります。同時に、アクリルケースの内側には、ナフタリンが白い雪の様な結晶として、再び姿を現します。気化と再結晶化を繰り返す様は、時間の流れを感じさせてくれました。

 今年、夏も盛りの頃、札幌国際芸術祭のメイン会場のひとつで、札幌郊外にある芸術の森美術館を訪問しました。そこに展示されていたのが、宮永愛子さんの作品。今回は、以前(2005年)の作品《そらみみみそら》の発展形だそうで、説明では、「サウンド・インスタレーション」。陶器の底に塗られた釉薬の割れ-「貫入」-の音を聞かせる作品です。

 展示室に入ると、中央に置かれた大きなトロッコが目を引きます。その赤錆だらけのトロッコを取り囲む様に、白い陶器がぐるりと並べられている。宮永さんは、この作品の構想を練っていた時、美術館の隣を流れる豊平川の話を聞いたそうです。川を遡って行くと、古い鉱山跡にたどり着く。更にその地下深くに、鉱物を採掘した後の大きな空洞があり、地下からの湧水や地面からしみ込んだ水が溜まった地底湖の様なところがありました。豊平川の水源のひとつであるこの地下水を、陶器の釉薬に混ぜて使用したそうです。展示室のトロッコも、この鉱山で使用されていたのでしょう。

 「貫入」による音とは、どのようなものでしょうか。一般に陶器は、粘土の素焼のままでは、水を吸収しやすいため、表面に釉薬を塗った後に焼く事で、表面をガラス質で覆う事が出来ます。「貫入」とは、このガラス質の釉薬が、陶器素地との収縮率の違いにより、冷えて行く時、割れ(またはひび)が発生する事です。窯から出した直後の陶器は、急な温度の低下の為に、「貫入音」が賑やかに聞こえると言います。

 今回の展示の陶器は、窯から出してだいぶ時間が経過しているので、頻繁に貫入音が聞こえるわけではありません。陶器の底に釉薬が溜まり、少し厚いガラス質の層が出来ています。宮永さんは、釉薬の調合により、この貫入が、時間を経過した後も、断続的に発生する様にしました。つまり、陶器を置いておくだけで、自然と「貫入音」が鳴るわけです。

 実際に、作品に聞き耳を立てていたのですが、よくわかりません。定期的に、例えば、3分毎に発生させる、と言ったところまでコントロールは、出来ていない様です。鑑賞者は、いつどんな音が聞こえるか、わからないままじっと静かに作品を見つめ続けます。

   「チン!」

突然、小さな音ですが、確かに聞こえました。ガラス質のものが割れるならば、「パリッ」の様な音を想像していたので、意外でした。フライパンの底をナプキンで包んだスプーンで軽く叩いた様な、硬質な響きでした。

 陶器は、何も変わらない不動の固体の様に見えますが、実は変化し続けているのだという事を、「貫入」という現象が教えてくれます。土と釉薬(ガラス)の収縮率の違いが、両者の間に緊張のエネルギーを生み、ある時その均衡が崩れ、亀裂が生じます。人の目には見えない、均衡と崩壊の繰り返し。宮永愛子の作品は、私たちの住むこの世界では、永遠に不変のものなど無く、時間の流れの中で全ての事象は変わり続けている事を教えてくれます。

                                egg:多田信行



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2014年11月17日月曜日

挑戦する日本画展

挑戦する日本画展―「日本画滅亡論」を超えて 1950~70年代の画家たち
2014年7月5日~8月24日

@名古屋市美術館

 静寂の中、和室でじっくりと鑑賞するために描かれる花鳥風月。というのが、私の「日本画」に対するイメージだ。理想的に美しいものしか描かれていない。もちろん、風神雷神などの荒々しい神々が描かれた襖や、柳の下に女が不気味に立っている掛け軸などがあるのは知っている。しかしそこには、たとえ恐ろしくても、伝統的な様式美を感じることができる。それゆえ今回、『挑戦する日本画展』で目にした「日本画」はとても新鮮だった。私が第二次世界大戦後の日本画を知らないからだ。
 私は日本画家を多く知らない。美術の教科書などでなんとなく名前を知っている画家が何人かいるくらいで、その中でも作品と作者を一致して記憶している自信もない。その程度の知識しか持たない者にとって、50名の「日本画家」の作品を一挙に目にできる機会はとても貴重だった。しかも、私の知っているような作家がフューチャーされ展示の大部分を占めるのではなく、「日本画」の名の下、知名度の高低なくほぼ平等に扱われていたことに、「日本画は数人の作家が作り上げたものではない」という企画者の意図が感じられた。並んでいる作品も、現実社会の等身大の人物や、概念的で抽象化された模様、自己の内面を表出したようなものが多く、私のイメージしていた襖や掛け軸はなかった。「激動する日本社会の現実に対応できない「近代の日本画」に対する批判として「日本画滅亡論」が登場しました。その逆風の中で、意欲的な日本画家たちは(中略)「日本画」の革新に取り組みました」とチラシにあるように、日本画は生き残るために挑戦し、進化を遂げたのだと思う。
 しかしこうなってくると、西洋画とは何が異なるのか、という疑問が湧いてくる。「日本古来の伝統を継承する絵画の総称」(チラシより)を「日本画」とするならば、西洋画との違いは使っている画材の違いだけになってしまわないだろうか。なにを描いているから、これらの作品が「日本画」という分野に収まっているのだろうか。「日本画」という“ジャンル”を受け取る側もしっかりと定義しなければ、その「挑戦」はぼんやりとしてしまう。
 近年、“コラボレーション”という言葉をはじめ、“ジャンルを越えた表現”などの紹介文を目にすることが多く、新しい何かをみることができるというだけで惹かれてしまう。しかし、その1つ1つのジャンルにおける他のジャンルにない特化した要素、それに至る歴史など、はたして私は知っているのだろうか。なにがどのように新しく、どの部分が重なり合い複合的なのかを判断できているのだろうか。何か重要なものを取りこぼしていそうである。新しい表現を求めることも重要だが、1つ1つの歴史や伝統に目を向けなければいけないことを痛感した展覧会だった。



2014年11月10日月曜日

華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある ~ヨコトリと、その周辺で

2014年8月1日11月3日
横浜美術館+新港ピア他
生きものの記録(黒澤明)/ 1955
 2014年9月5日
 ウィルあいち・ウィルホール
2014年7月5日9月15日
神奈川県立近代美術館鎌倉別館

2011年を経た現在の日本人が忘れたもの、それを思い出させるのは芸術の力だけなのかもしれない。政治、経済を取り巻くグローバル化のうねりは、正義とは、人間とはという哲学を我々から忘れさせている。大国の論理、武装した国の圧力、宗教を取り込んだ殺戮を目の当たりにする今、何かが地球に生きる者に静かに迫りつつある。我々にもう一度立ち止まり、その何かを考えさせてくれる、アートの体験には確かな力があった。

ヨコハマトリエンナーレのテーマにある「華氏451」は1953年のレイ・ブラッドベリ作SF小説、のちにトリュフォー監督によって映画化もされた。時代は近未来、時の治世者は民衆の思考停止を図るべく、世の中から書物を焼き捨てようというのだ。人間の大切な、長い歴史における知の結晶が彼らの都合で葬られ、抵抗する者は容赦なく抹殺される。

 地震国での原発の危険を知りながら、廃棄物の処理方法も見いだせないまま、再稼働を決定する。他国に原発や武器を輸出する。二度の原子爆弾の脅威を知り、平和憲法、言論の自由を戦後民主主義は拠り所としてきたはずなのに、議論も熟さないまま法律が変えられる。そして今、日本人は2011年に経験した感覚も忘れ去ろうとしているのか。今だけを生き延びるではあまりにも無責任すぎる。自分たちの国の権益だけを主張していては、いずれ人類は滅びる。目に見えない大切なものや小さな声が追いやられていく。

フランスのルイ15世の公妾で、贅の限りを尽くしたと言われるポンパドゥール夫人が述べた、「我の亡き後に、洪水よ来い」。これは新港ピア会場に展示されていた、メッセージである。

新港ピア会場(chapter11 忘却の海に漂う)に入ってすぐに写真家土田ヒロミの「ヒロシマ」をめぐる3つのシリーズがある。なかでも長田新の編著書『原爆の子』(1951)に被爆体験記を寄せた子どもたちのその後を追った《ヒロシマ19451979/2005》はそのテキストと写真で、過去と現在を同一画面上に構成したものだ。なかには「撮影拒否」と書かれたものや後ろ姿を撮ったものもあり、当時の彼らの心情を正確に映し出している。過去を心の奥底にしまい込み、父、母として、夫、妻として、ごく普通の一人として生きて働く、それぞれの生活者の歴史を見る。時の流れの中で風化しようとしている記憶を土田の写真は私達の心にピン止めするかのようだ。

神奈川県立近代美術館鎌倉別館で「ベン・シャーンとジョルジュ・ルオー展」が開催されている。震災の年から翌年にかけても「ベン・シャーン展」が福島、名古屋などで開催され、「第五福竜丸」を主題とする《ラッキードラゴン》などに彼のジャーナリズムの神髄を見た。彼の平らかな目は、常に弱者を映すことで人間の尊厳を強く訴える。
さらに今月、あいち国際女性映画祭2014で黒澤の1955年作《生きものの記録》が上映された。黒澤の映画の中ではあまり知られていないが、奇しくもアメリカの水爆実験直後に同じ「第五福竜丸」を主題として映像化した作品だ。ストーリーは主人公が(35歳の三船敏郎が70歳の老人役を演じている)当時日本にも害が及ぶと言われた水爆から逃れるために自分の一族郎党を引き連れてブラジルへ移民しようとするものだ。財力に物を言わせ、自分たちだけが助かる道を探る、これもまた人間のなせる業。だが、誰からもその考えを理解されず、精神を病んでいく。黒澤の生の人間の描き方はモノクロ映像を通すことで、より強く現在の我々に迫る。

 ヨコハマトリエンナーレ、ベン・シャーン、黒澤と、私たちが忘れてはいけないもの、そして考えを停止させられ、行動を阻止させられようとしていることをアートの力によって投げかけている。受け取るか、忘却するかは観る者の感性に任されている。

                               egg:三島郁子

藤原泰佑 展 《Re:Born》

藤原泰佑 展 《Re:Born》
2014年6月22日(日)~7月20日(日)
ギャラリーM
 
 以前から気になっていた藤原泰佑の個展。風邪にめげず、オープニングパーティには行くべきだった。
 春に行われた、同ギャラリーでの作家6人展を見て以来、藤原さんの異形ともいえる構築物を描いた作品は、若手作家の中でも異彩を放ち、脳裏に焼付いたままでした。その奇妙なものは、10階建以上のビルディングに相当する大きさだけれど、きちんと設計・施工されたわけではなく、レトロな看板の商店や古い家屋を無造作に積み上げたようなものです。「松崎商店」「○田ふとん店」等の商店名、「ブリジストン」や「ナショナル」などのよく知られた商標の看板も見える。まるでモクモクと湧き出た積乱雲が、建築物の姿を借りて地上にデンとそびえ立つ様な、周りを圧倒する程の存在感を醸し出しています。
 顔を近づけて絵の詳細を見れば、個々の家は、必ずしも完全な形を保っているわけでなく、半分くらいが薄く消えているものさえあることがわかります。藤原さんは、実在する商店や家屋をカメラで撮り、パソコン上で画像を重ね合わせました。あるものは商店全体を、またあるものはシャッター部分だけ、屋根の部分だけ、どこかわからない家の一部分を、コラージュの様に画像データを張り合わせ、その後、それらの上に油彩などで彩色を施しました。看板の派手な色と大きな文字、壁のくすんだ灰色、実際とは異なるであろう原色に近い彩色等が渾然一体となって、その構築物の持つ猥雑なエネルギーを表現しているようです。
 藤原さんは、東北(山形県)在住で、2013年に東北芸術工科大学大学院を出たばかりの若い作家です。同大学には、教授として美術家の三瀬夏之介さんがいます。三瀬さんといえば、「東北画は可能か?」という共同制作・展覧会活動を思い出します。その活動とは何か、サイトの説明によると、
「東北という辺境において、その地域名を冠にした絵画の成立の可能性を探る試みである。『東北』と一括りにされた風土、価値観に対するローカル地域からの逆襲でもある」 
とあります。
藤原さんも学生時代に、「東北画は可能か?」の活動に参加していたようで、その頃から、地方のあり様に関心があったのでしょう。彼のインタビュー記事には、「もともとあった地域の商店街のエネルギーは、大きなビルに収まり切れないくらい大きい」「この商店街のエネルギーを、消えゆく前に描こうとおもいました」とも言っています。
 なる程、赤黄緑等の原色による彩色は、エネルギッシュな感じで、都市の雑踏の、猥雑ではあるが活気に満ちた雰囲気を想起させます。しかし、その原色のペンキの汚れや、家屋の壁の剥がれ、閉じられた雨戸を見ると、私はどうしても、地方のシャッター街を思い出さずにはいられません。昔、私が子供の頃住んでいた田舎町では、「ナショナル」の看板を掲げた電気屋は、夢と活気の象徴でした。でも今は衰退の象徴です。藤原さんも、きっと同じ思いなのでしょう。活気溢れる商店街を思い起こしながら、地方再生の願いも込めて「Re:Born」というタイトルにしたのだろうと思います。が、描いたものは、悲しいまでに未来を失った街の残骸にも見えます。
 藤原さんが描いているのは、かつての街の、燃え上がる様なエネルギーの残渣なのか、再生に向けた旗印なのか、そんなお話をお聞きしたいと思っていたのですが。
              
                            egg:多田信行

2014年11月9日日曜日

夢見るテレーズ

バルテュス 《夢見るテレーズ》
2014年4月19日6月22日
東京都美術館

 蝶は、サナギから成虫へと羽化する時、短時間でその体を変える。サナギの背中に出来たひとすじの割れ目から、成虫が顔をだす。太い体に小さく縮んだ翅(はね)。もそもそと這い出して、サナギの殻の近くの枝にとまってじっとする。小さく折りたたまれた翅が、徐々に広がっていく。翅の中には、翅脈(しみゃく)があって、体液がそこに流れ込む事で、やわらかな皺だらけの羽が、ピンとのびていく。

 春、東京都美術館でバルテュス回顧展を見た。その中で注目の作品をひとつあげるならば、《夢見るテレーズ》だ。片膝をたてて長椅子の上に座り、両手を頭の上で組みながら軽く目を閉じ微睡む少女。バルテュスが少女を描いた中では、最もよく知られている作品だ。

 長椅子にのせた足の間から下着が見えるポーズのために、思春期の少女のエロスを描いた、などと言われる事もあるが、とてもその様には見えない。棒の様に細い腕や足は、思春期の女性のふっくらと瑞々しい肢体とは異なり、むしろ子供の体を思わせる。作品のモデルとなった少女は、パリにアトリエを構えていた時の近隣の失業者の娘と言われており、当時まだ13才だった。確かに子供だ。興味深いのはその表情である。眠っているように見えるが、目を閉じて考え事をしているのだとしても頷ける。憂鬱そうに考え事をしているような横顔と、無造作に足を開き、スカートの下を無防備に晒しても気にしない素振りが、大人と子供の入り混じった様相を見せる。太ももあたりをつついたら、「うっさい、ボケ」など愛嬌のある返事が飛んできそうで愛らしい。足元で、周りなど気にする様子もなく皿のミルクを舐めている猫は、無垢な少女の化身にも思える。

 テレーズと対照的なのが、《鏡の中のアリス》だ。上着は無く、ミニスリップ姿で髪をとかしながら肩紐をはずし、片方の豊満な乳房を露にしている。片足を椅子の上にのせ、スリップの裾から、性器を覗かせる。成熟した肢体は、露骨なまでのエロティシズムを醸し出し、異性の目を引くには十分であるが、どこを見ているのかわからない白い目は、素朴な愛らしさを失った無機質な表情だ。

 バルテュスにとって、女性の美しさとは何だったのか。何度も少女のモデルをとっかえひっかえしたのは、子供から大人へと変わって行くその瞬間に美を求めたのだろう。子供ではない、しかし、大人にもなっていない。未成熟だが、これから確実に成長するであろう肉体。その限られた時間の中に女性の美しさを見たのだ。まさに、サナギからはい出たばかりの成虫。わずかの時間の間に、ぷっくりと膨らんだ体から、体液を押し出し、翅脈に満たしていく。翅が伸び切った頃には、体もすっかりとスリムになって、ふわりと空中に飛び出す。アトリエという誰も立ち入る事の出来ない密室の中で、バルテュスは、サナギから成虫へと変わって行く少女をじっと見つめていたのだろう。

 三菱一号館美術館の「バルテュス最後の写真 ―密室の対話」展では、晩年、デッサンが難しくなったバルテュスがポラロイドを使って、モデルの少女を映した写真を展示していた。しなやかに伸びた足、わずかな膨らみを見せる胸。まさに今、蝶となって飛び立たんとする美しさだ。驚いたことに、そのモデルとなった女性もゲストで来館していたという(サイトで紹介)。すっかり大人となったその人は、一目では、同じモデルの女性とはわからなかった。バルテュスが少女に拘った理由やはりそこだったのだ。