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2014年12月21日日曜日

森下真樹×束芋 《錆からでた実》

森下真樹×束芋 《錆からでた実》
2014年11月8,9日
京都芸術劇場 春秋座


 
 森下真樹(舞踏家)と束芋(現代美術家)のコラボによる、コンテンポラリーダンス作品《錆からでた実》の公演が、京都造形芸術大学内にある京都芸術劇場・春秋座で行われた。振付は森下、舞台美術は束芋、構想はふたりで行い、ダンサーは、きたまり、川村美紀子と森下の3名だ。初演は、昨年、東京の青山円形劇場だが、舞台構造がかなり異なっていたので、今回に向けて若干の作品修正もあったようだ。
 森下は、これまで映像を作品の中に取り込んだ事はなかったが、束芋とは、年齢や家族構成(3姉妹)等が同じことから交流が始まり、映像を入れた舞台に挑戦するに至った。束芋も振付家とのコラボは2回経験しているものの、従来作品のアレンジに留まっており、構想からつくり始めるのは今回が初めてだ。また、ダンサーの2人は、共にコレオグラフィーや横浜ダンスコレクション等の受賞者というこの個性派集団。森下はどの様にまとめ上げるのか。《錆からでた実》は、全てがチャレンジなのだ。
 公演の開始早々、カーテンが上がり始めると、3人のダンサーの足だけが見える高さで止まる。足だけを見せるダンスが始まる。しかしカーテンの上には、ダンサーの上半身に見える映像が映し出されており、本当の人影であるかの様に足元と連動した動きを見せる。後半部分でも、映像が映った背景の後ろにダンサーが入ると、その映像の中に人影が映し出され、まるで人が動き回っている様に見える。この様に映像が、ダンスと密接な関係で制作されているのは、あまり例が無いと言ってもいいだろう。
 映像は、通常、ダンスを引き立たせる役目になるが、束芋の場合、ひとつの作品として成立する程の強烈な個性と完成度を持っている為に、ダンスそれ自体を飲み込んでしまう危険性も孕んでいる。舞台を見ていると、激しく踊るダンサーに目が釘づけになっていたり、鮮やかな映像に目を奪われたりと、ダンスと映像の間を視線が行きつ戻りつしているのに気づく。だが、3人のダンサーのパワー溢れる動きの前では、心配は無用であった。むしろ、束芋の映像の持つ存在感が、ダンスと激しくぶつかり合う事で、作品全体の熱気を倍増させる事になった。
ダンサー3人は、まるで3姉妹だ。3人の群舞を見ていると、長女(森下)の振付で、要領良しの次女(きたまり)とやんちゃな三女(川村)をうまくまとめ上げている様に見える。この長女なしでは、これだけ個性の強い人の集りを制御できないのではと思わせる。ダンスは、群舞とソロの両方が演じられ、ソロの時は、それぞれのダンサーにかなり自由度が与えられていた様だ。川村などは、いつもの激しい動きが戻り、舞台狭しとばかりにパフォーマンスを見せつける。遂には、舞台下の観客席前のスペースで踊り出すほどで、殆ど暴走と表現してもよいかもしれない。しかし、これも森下の振付の想定内の事なのだろう。計算された動きの群舞と自由奔放なソロが、対比をなして、重層的なパフォーマンスとなっている。
 この作品のタイトル《錆からでた実》は、何やら奇妙な言い方だ。その意味するところは、「身から出た錆」の『錆より更にその先に、実がある』(苦しんだからこそ、その先に何かがある)という希望なのだそうだ。公演を見た限り、彼女達は確実に、いくつもの実りを収穫したと言える。




2014年12月18日木曜日

悪魔のしるし:演劇《わが父、ジャコメッティ》―虚と実のトポロジー―

劇団 悪魔のしるし:公演《わが父、ジャコメッティ》
京都国際舞台芸術祭2014
2014年10月16日(木)
京都芸術センター講堂

 
劇場に入ると、既に3人の俳優がなにやら雑談している。観客がまだ入場中の場内はざわついているので、耳をそばだててもその小声は何を話しているのかはっきりと聞き取れない。だが、それはオーケストラの音合わせのような、期待感で胸が膨らむ時間でもある。じきに観客が全員着席し静まってくると、舞台上の柱時計が開演の午後8時を告げる。その瞬間、我々は現実の時間から演劇の時間へとするりと滑り込んだ。
 この導入部は、この劇が現実と地続きであることを暗示している。しかも舞台上では、3人の俳優がそれぞれ、登場人物と自分自身を同時に演じるという入れ子構造が展開される。主宰の危口統之は矢内原伊作を演じると同時に演劇人である自分自身も演じる。木口敬三はアルベルト・ジャコメッティを演じると同時に画家である自分自身も演じる。大谷ひかるはジャコメッティの妻を演じると同時にミュージカルの研究生である自分自身も演じる。おまけに、木口敬三と危口統之とは現実の親子でもある。
 劇のストーリーもジャコメッティと矢内原の筋立てと、現実の画家である父親と演劇人である息子の物語が交錯する。その上、舞台の造り込みにしても、ジャコメッティでもある木口敬三が油絵を画くと、その手元が舞台のスクリーンに映写されたり、俳優の台詞が同時に字幕としてスクリーンに映し出されたりする。それも、日本語と英語、日本語とフランス語が交互に投影される。
 このように虚実の二重構造が折り重なり錯綜すると、そもそも3人の俳優がセリフをしゃべっているのか、それとも単に自分自身として語っているだけなのか、見る方も混乱してくる。そうした本人性の揺らぎが危口のねらいなのだ。
 しかも、今回の演目はもし木口敬三が亡くなれば、このシナリオでの再演は厳密には不可能となる。そうした一回性もこの演劇の構造をさらに捻じれさせている。生身の俳優が一回性を生きながら、テクストという虚構を演じているわけだ。その両面がまるでメビウスの輪のように入れ替わりながら、しかも切れ間なく連続する舞台となっている。
 悪魔のしるしという劇団そのものが演劇の分野だけでなく、建築やファッションなど様々な分野にわたる専門家の集団である。彼らの代表作《搬入プロジェクト》は、何の役にも立たない巨大な物体を、それが入るか入らないかぎりぎりの入口から建物の中に運び込む。模型で入念に何度も確認した後、観客がお祭り騒ぎさながら見守る中、搬入する。いうなれば、このパフォーマンス自体が虚構の物体を現実という建物の中に、はみ出さないスレスレで押し込むという隠喩になっている。
 60年代後半から70年代初期のアングラ演劇において多用された構造、ラストシーンで一気に舞台と外界を地続きにする屋台崩しに対比すれば、《わが父、ジャコメッティ》は開幕冒頭から最後までずっとテントが開きっ放しになっている芝居だといえる。


 
egg:武藤 祐二

2014年12月16日火曜日

ルイス・ガレー振付《Mental Activity》―物体と関わる身振り。テクスト化する身体―

ルイス・ガレー:振付《Mental Activity》
京都国際舞台芸術祭2014
2014年10月11日(土)
京都芸術センター講堂



《Maneries》で洗練されたミニマムな身体表現を追求したルイス・ガレー。今回、《Mental Activity》では一転、粗暴なまでに生々しい舞台を提示した。
 暗い会場に入ると、ちょうど観客の目の高さからのライトに照らされて、舞台だけが浮かび上がっている。墨があちこち塗りたくられ、水もまき散らされており、それらが導線となって何かが起こりそうな不穏な予兆が漂う。
 すると突然、周囲の暗闇から舞台に投げ込まれる、ネックレスひとつ。それを合図に、ペットボトル、ボール、長靴、ハイヒール、自転車のサドル、土管、タイヤ、レンガ、岩、発泡スチロール、丸太等々、ありとあらゆる大量のガラクタが次々に投げ込まれる。たちまち舞台一面ガラクタで埋め尽くされ、足の踏み場もないゴミ捨て場と化す。こんな場所でダンサーは本当に踊れるのかと訝しく思えるほどだ。
 4人のダンサーが静かに登場する。一呼吸あって、ひとりのダンサーがガラクタの中を走り抜ける。次はふたりが肩を組んで、さらには3人が肩を組んで、その次は4人全員が肩を組んで倒れ込むように疾走する。怪我もせんばかりに、ガラクタの中を駆け抜ける。
 次に、女性ダンサーが手を使わず、頭を付けて丸太を押し動かす。そしてゆっくり丸太を立てる。そのあと、4人がそれぞれ、手当り次第にガラクタと戯れる。石を持ち上げ、レンガを投げ上げ、綱で縛ったコンクリートブロックを振り回し、土嚢を口でくわえ上げる。ブリキ缶をなめ、フェルトペンで腕に線を引く。綱を引き合う、長い木の枝の両端をふたりのダンサーが双方の頬だけで落ちないように支え合いながら静かに移動する等々、雑多でプリミティブな行為を繰り広げる。音楽は最初かすかな地響きのようなサウンドが徐々に大きくなるという単純なもの。そのことがかえって、観者をダンサーの動作だけに集中させている。

 素手のときのダンサーの身振りは言語以前のイメージにとどまる。それに対し、ピナ・バウシュのタンツテアターにしばしば見られるが、物体と関わって踊る身体はある種のテクスト性を帯びる。物質と身体が織りなす交点に意味が立ち上がる。ガレーは「精神の働きは極めて物質的」と語る。題名の《Mental Activity》を訳せば「精神活動」だ。ガラクタとダンサーがあたかも交信しているかのようにも、ガラクタを浄化する儀式とも解釈可能であり、肉体、精神、物質が三つ巴となって荒々しい相克の表情を見せる。それは取りも直さず人間の原初的な営みそのものであり、ガレーはその裸形を突き刺さんばかりに我々の眼前に投げ込んだのだ。

2014年12月14日日曜日

金氏徹平、横山裕一ほか:ライブペインティング《トレースのヨーカイ》―木に竹を接ぐ。創造的誤解の連鎖―

金氏徹平:展示《四角い液体、メタリックなメモリー》における、ライブペインティング《トレースのヨーカイ》
京都国際舞台芸術祭2014
2014年10月4日(土)
京都芸術センターギャラリー南



“木に竹を接ぐ”という言葉がある。性質の違う物をつなぎ合わせること、転じて、物事がチグハグで前後関係や筋道が通らないことのたとえ。金氏徹平は、日用品や安物の玩具の部品などのガジェット同士の接合を主たる作風としており、文字どおり木に竹を接ぐ趣を呈している。
 ただし、金氏のそれは、同じく脈絡のない物体どうしを組み合わせるシュールレアリズムのデペイズマンとは明らかに違う。デペイズマンは組み合わされた物体それぞれを異化し、観者にイメージの不意打ちを食らわせるのに対し、金氏の作品は双方の物体を同化させ、あるいはその物の用途や意味を無化する。

 ライブペインティング《トレースのヨーカイ》は、金氏の作品群を舞台装置に、4人の造形作家が琳派の創始者俵屋宗達の代表作《風神雷神図屏風》をそれぞれ解釈してトレースするというパフォーマンス。金氏のほか、横山裕一、板垣賢司、森千裕が、屏風状の透明なアクリル板の向こうに風神雷神図屏風の原寸大レプリカを見透かしながら、観衆の目の前でトレースを画いて見せた。
 琳派は、直接師弟関係を結んで系譜となった狩野派とは対照的に、時代を隔てつつも作品をリスペクトすることだけによって引き継がれてきた。ある意味、木に竹を接ぐがごとく、断続してきたものだ。日本絵画史においては、江戸琳派以降、明治に入ってからも、速水御舟、山本丘人、加山又造など日本画家が私淑して連なり、また、永井一正、田中一光などのグラフィックデザインにもその感性が受け継がれるなど、琳派は現代にもアクチュアルな影響を及ぼしている。
 今回、4人の現代アート作家が《風神雷神図屏風》に接ぎ木を試みたという趣向だ。金氏と板垣、森が、わりとオーソドックスにトレースしたのに対し、横山は自身の良く使うキャラクターに大胆に引き付けて変奏した。レイヤーを成しつつも同化する宗達のレプリカと4人のアクリル板上のトレース。おまけに、その様子を写真家の梅佳代がさかんにカメラに収めていたのだが、梅自身もアクリル板越しにさながらトレースの中の人物となっていた。

 そもそも美術史は、木に竹を接いできた歴史であるともいえる。それも誤解による接ぎ木だ。例えば、セザンヌの「円筒形と球形と円錐形」をピカソが誤解しキュビスムが生まれた。カンディンスキーの場合は自分の作品を誤解し純粋抽象絵画に至り、関根伸夫の《位相―大地》を李禹煥が誤解し「もの派」が誕生した。先人の作品の企図を創造的に誤解して、それを受け継ぐ。いわば誤解の連鎖である。ライブペインティング《トレースのヨーカイ》は、そうした誤解の美術史を踏まえた、いわば木と竹の溶解と解すべきだろう。

2014年10月26日日曜日

「和歌祭・面掛行列の仮面」展
2013年12月7日~2014年1月19日
和歌山県立博物館


 企画展「仮面の諸相―乾武俊氏の収集資料から―」に合わせて行われた常設展。企画展が日本と世界各地の仮面を広く一望する内容なら、こちらは地元の和歌祭の民間仮面に絞った展示で、ぴったり照応していた――と言いたいところだけれど、「常設コーナー」と呼ぶ方がふさわしいほど小さなスペースなのに、呆気にとられるようなインパクトでもって仮面の世界の魅力を増幅していた。
 和歌祭というのは紀州東照宮の祭りで、その中に仮面と仮装で練り歩く面掛行列という行事があるらしい。その祭りで使用されてきた98面のうち、今回は23面が展示された。古い神事面や能面、狂言面、神楽面など貴重なものばかりで、ずらりと並んだ様子はもう壮観。中には天下一友閑など江戸時代前期の超一級面打師の銘を持つ面もある。通常ならお宝として長年手厚く守られている面だ。でもここの面はどれもずっと祭りの中で使われてきており、時の流れがもたらす存在感がひときわ強い。つまり保存状態が良くないのだが、しかも一部はかつて布テープや黄色いペンキで補修されていたという。その事実に唖然とした――いや、もう絶叫しそうになった好事家もきっと大勢いるに違いない。それなのに、同時にその在り方に深い感慨を覚えた。
 このある意味ショッキングな仮面を見て思い出したのは、若桑みどり著『聖母像の到来』で知った長崎県生月島の聖母子像である。隠れキリシタンが厳しい弾圧の下、数百年に渡って納戸の中で守ってきたお掛絵と呼ばれる聖母子像は、元々は宣教師が伝えた西洋カトリック圏の図像だった。しかし古くなると信者の手で描き直される「お洗い」を繰り返したため、次第に日本化され、極度にプリミティブになっていった。絵画の極北のようなその在りよう、その強さが、和歌祭の面と重なって見えたのである。ただしこちらの面にはお掛絵とは真逆の明るさがあるのだが。
 美術工芸品として優れているかどうかや来歴が貴重といった価値観とは別のところで、ある造形物を捨て去ることなく守り継ぐということ、その造形物に人が並々ならぬ何かを仮託するということ。それが遠い古代や未開と言われる地ではなく、近世から現代にかけての日本で行われてきたという事実。他にも事例はたくさんありそうな気がするのだが、虚を衝かれた思いがした。日本的アニミズムの一種というよりは、ここに普遍的な祈りと造型の根源を見て取りたい。
 でもそう言えるのも、今は博物館がこれらの面からペンキやテープを除去し、修復して大切に保存しているという安心感があるからかもしれない。このように同館には和歌祭との関連で面の研究の積み重ねがあり、乾武俊氏が寄贈する仮面にとっても幸福な終の棲家になるのだろう。

                                 egg:神池なお


2014年10月24日金曜日

★更新情報: 2013年度アートレビュー講座の課題一挙掲載

2013年度のアートレビュー講座「アートレビュー筋トレテーブル」の課題として書いた文章を、すべて掲載しました。「黒田辰秋・田中信行―漆という力」展について受講生全員がレビューを書いた後に、挑戦したものです。

●あいちトリエンナーレ2013(会期:2013年8月10日 ~10月27日)のレビュー等26本

 まとめてご覧になる場合はこちらからどうぞ。

 ・あいちトリエンナーレの作品解説に挑戦!………計10本
  作品解説プレートを自分で書いてみよう!という課題でした。

 ・レビュー………計16本
  自由課題として書いたレビューです。

●あいちトリエンナーレ以外のレビュー……計15本

 幅広いジャンルや地域の展覧会・イベントのレビューが集まりました。
 開催日が新しい順に並んでいます:

 ・大野一雄《ラ・アルヘンチーナ頌》
 ・未来に掉さす光の一閃(ハイレッド・センター:「直接行動」の軌跡展)
 ・大西康明『垂直の隙間』
 ・フランシス・ベーコン展 ―マンネリズムを超えて夢のベーコン展へ―
  フランシス・ベーコン展―目撃せよ。体感せよ。記憶せよ。
  フランシス・ベーコン展
 ・久野利博展
 「まなざし」の邂逅(芝川照吉コレクション展)
 アントニオ・ロペス・ガルシア――ワーク・イン・プログレスとしての写実絵画
 プーシキン美術館展 フランス絵画300年
 森山大道というメディア
 冷静と情熱のあいだ?―フランシス・アリスのメキシコシティ
 円山応挙――江戸期のインスタレーション
 『したいからする・したいようにする』それはアートの原点だと信じる。
 昭和40年代への憧れを表現した屋台インスタレーション

この画面左側の「ラベル」から、レビュアー別、エリア別に表示することもできます。

2014年10月22日水曜日

大西康明『垂直の隙間』

2013年8月3日 (土) - 2013年9月16日 (月) 
京都芸術センター ギャラリー北・南ほか


144年、かつての小学校の教室をホワイトキューブ化した展示空間。奥の一面のみが黒い。2面の壁と床の接触辺で線上にのびるライティングが唯一の光源。その中央に浮かび上がるのは、白い結晶で覆われた樹木の森のような作品である。

 高さ2m超の木の枝を何本か天井から逆さに吊るす。中央は高く周辺はやや低く、立体的に配置して森のようなまとまりを形成する。
それから、半透明の液状接着剤を枝から下にしたたらせ、細い糸を引いて固まった接着剤によって枝と床を線でつなぐ。この工程をどれだけ繰り返すのだろう、やがて枝と床は無数の垂直線で接続される。
 さらに全体に尿素の飽和水溶液を吹きつけると、作品表面とその床面はすべて、表出した白い結晶でおおわれる。

 上部から見ていくと、枝は逆さに吊るされたため、葉に隠れて目につかない裏側の曲線を上部にさらけ出し、枝であったことを忘れさせる。それは、吹雪のかなたに屹立する雪山の稜線のようでもあり、宇宙空間にむかって立ちのぼるオーロラの上端のようにも見える。
 そして、露わになった曲線に対する意識は、そこから垂下する無数の線によって支持されていると気づく。

 垂直方向に枝と床面をつなぐ線は、一つ一つは蜘蛛の糸のようにか細く垂れ下がり、それをたどって何かが上から下へと流れ、床面と親和する。
 垂線のたどり着く先である床面はすでに(床)の概念を超越して( ground ) 【※地面、地球の表面、あるいは接地】のイメージに変容する。
いっぽう、目線を下から上に戻すと、垂線はすぅーっとgroundから立ち上がっているようにも見える。俯瞰すると、結晶の森が垂線を支持体にふわっと伸び上がる上昇感すら感じる。

作品全体を覆う結晶のひとつひとつは、幾何学的な造形美をみせると同時に有機的で、人工と自然の両方でも、そのあいだでもある。
結晶をつぶさに見ていくと、圧倒的に人間の手を離れたミクロの造形世界に迷い込む。我々が立ち入ることのできない領域を覗き見るような感覚だ。

垂線をてがかりに、上から下へ、下から上へ、着地したり上昇したり、様々な概念の間を行ったり来たり・・
背面の黒のおかげでなんとかそのアウトラインをたどることができるが、フレーミング無くしてさまようには危険な世界の探検である。

背面の黒とは、壁一面に張られた大西の平面作品であるが、こちらは、一面に細かい凹凸の痕跡を残しながら定着させた黒い接着剤をベースに、グラファイト粉を全面塗布して光沢を出し、さらにホットグルーガンの先端で引っ掻いて内層の黒を部分的に露出したり、追加の接着剤を塗布する、といった工程を経ている。
遠目では(黒)という大雑把なイメージだったが、よく見ると執拗なほどの手数をかけて制作された痕跡がせまってくる。
もう一度俯瞰すると、その痕跡が光を複雑に吸収・反射しながら、なんだかわからないがそこにある気配を後方から醸し出す。

黒の気配を感じながら白い垂直の隙間に見た世界は...うたかたの夢の如く。


egg:竹市朋世

「まなざし」の邂逅(芝川照吉コレクション展)

芝川照吉コレクション展 ~青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター
2013年5月18日(土)~6月30日(日)
京都国立近代美術館


 人が人をまなざす時、互いに見ているものとは、一体なんでしょうか。もちろんその視線の先にいる私または貴方、あるいはそれを通り越した、背景のどこかかもしれません。
 人がものを見る時、そこには必ず見られるものがあります。そして見られるものは、見るものを正しく映して跳ね返す。ということは、そこにあるのは果たして、相手なのでしょうか。それとも、「私」なのでしょうか。
 京都国立近代美術館で開催中の「芝川照吉コレクション展/青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター」は、一人の人間に対する、さまざまな「まなざし」を感じることのできる展覧会です。
 明治・大正期の大阪で財を為した商人、芝川照吉。彼は当時の美術界において極めて重要なコレクターであり、作家たちにとっての良き支援者でもありました。彼と交流のあった作家らは、洋画の岸田劉生、木村荘八、坂本繁二郎、そして工芸の藤井達吉、富本憲吉等、美術史に名を残す面々ばかりが揃い、そのそうそうたる顔ぶれに驚かされます。展示では彼らの作品と共に、所々でその手になる芝川の肖像や木彫の人形、手紙、果てはデスマスクまでが配され、単なる作家とパトロンというだけでは括り切れない、親しい交流の端緒を垣間見ることができます。
 さて、そのような作品たちの中、ある一部屋で、私は印象的な2人の画家のまなざしに出会うことになります。
坂本繁二郎の《母子》、そして青木繁《女の顔》です。
 彼らの作品はちょうど展示室のこちら側と向こう側で、相対する壁面に数点ずつ、掛けられてありました。この対照的な配置はおそらく、2人が同郷出身であり年齢も同じ、学んだ師も活躍した場も一時期全く重なっていた、「朋友」とも呼べる仲であったことと無関係ではないでしょう。
 まず坂本の作品を鑑賞した私は、モノクロームのコンテ画、《母子》の前でしばらく動くことができなくなりました。
眠る女性と、その傍らに同じ様子で寝息を立てている幼い子供。ふっくらとした頬と尖った唇の柔らかな質感までが、黒一色の繊細な線描による陰影で見事に描き出されています。その無垢で安心しきった表情と緻密なまでの描き込みからは、儚い一瞬をいとおしむかのように筆を走らせる画家の一途なまなざしが感じられ、瞬間、夢の中に包み込まれるような心持ちになったのです。
 その時、反対側の壁面中央からふと視線を感じました。振り返ってみると、そこにあったのが青木繁《女の顔》でした。
 肩も顕わに着物をゆるくかけ、こちらを見返す一人の女性。意志の宿った強い瞳は、しかしどこか不安げで、瞳に射した光の白が際立ち揺れているようです。くっきりとした目鼻立ちに太い眉、何か言いたげに薄く開かれた厚みのある唇。頬には赤みが差し、野性的な力強さも感じられます。
この作品のモデルは、青木の愛人、福田たねという女性とのことでした。
けれど、表情。恋人であるはずのたねのこの表情は、一体どうしたことでしょう?私にはどうも、少なくともこの作品に描かれた彼女からは、愛情というよりは何か不安、困惑といった負の印象が拭えず、またそれゆえに矛盾が生じているように思われてなりません。
 2人の作品は、それぞれに、描かれた者をみつめる画家のまなざしをも映しています。それはつまり彼らの、彼女らに対する思い―『心』と言い換えることができるものです。
目を閉じて眠ってはいるものの、その表情と雰囲気から深い愛情と安心が伝わってくる《母子》において、私たちは彼女らをみつめる坂本本人のまなざしと出会います。同じように、《女の顔》では青木の、力に溢れながらもどこか不安定な、矛盾を孕んだまなざしと。
 そしてこの2人のまなざしは、私たち鑑賞者を通して、時空を越えこの展覧会場で再び出会っていると、言えはしないだろうか。ふと、そんな考えが浮かびました。描かれる人物は描く人物の依り代、まなざしの先にあるのは、その時彼らが見ていた、彼ら自身であるはずだから。
作品からにじみ出る対照的な2人の画家の精神から、私はそんな空想に胸を躍らせました。


egg:加々美ふう