2014年10月22日水曜日

レビュー あいちトリエンナーレ2013

あいちトリエンナーレ2013
2013年8月10日(土) ~ 10月27日(日)


 すべての作品と呼ばれるものは、それらが置かれる背景や文脈によっては、思いもよらない力を持った『化け物』に変化する。そしてそれを作り出すのは、ほかでもない、作品を受け止める者たち―鑑賞者たる私たち自身である。
 今から2年半前に起こった東日本大震災、その数日後に上演されたとある演劇は、作品が有していたメッセージ―『日常』というものの素晴らしさと脆さ―を、本来のそれよりずっと強く深い内省的な感慨をもって、観る者それぞれの心を揺さぶるものとなった。それは上演側の意図を越えて、すべての台詞、すべてのシーン、すべての歌詞の解釈を、それ以前とは違うものに完全に変質させていた。当時演じる側としてその舞台に立った自分自身、その空気をひしひしと感じ、同時に、思いもよらないその効果(自分たちの言いたかったことがあまりにも鮮やかに変質して伝わってしまったこと)に恐怖すら感じたものだ。
 その変化の裏に潜んでいるものは、一体なんだったのだろう。
2013年あいちトリエンナーレの作品で、印象深かったものが2点ある。まず、ミカ・ターニラの作品《the most electrified town in Finland》。これはフィンランドのとある町に原発が建設される過程を10年以上にわたって撮影し続けた記録映像で、3面のスクリーンに別々の視点からの映像を映し出すというもの。重低音の不穏な音響が流れるなか、早回しで建てられてゆく発電所の様子は、いわずもがな日本の原発と重なる。
 そしてもうひとつ、建築家宮本佳明による空間インスタレーション、《福島第一さかえ原発》だ。これは会場である愛知芸術文化センターの地下2階から地上10階までを使い、青や赤、黄色などのテープを建物内部に貼り巡らせ、格納容器や原子炉圧力容器まで含む福島第一原発のフォルムを実物と同じ寸法で示す、スケールの大きな作品だ。それらを観て回る観客の頭の中で、実際の建築物の大きさを体感してもらおうというわけだ。
 たまたまこの展示を一緒に観に行った友人が、このテープを貼る作業にボランティアとして参加しており、作品を観ながら前述のターニラの作品と絡め、興味深い話を聞いた。それは以下のようなものである。
「自分はこの作品の一部を為す黄色や赤のテープを貼る作業をしたが、やっている間はただただその『作業』に没頭していた。テープをいかにまっすぐ綺麗に貼るかということ、うまく貼れていなかったり、線がゆがんでいたりしたらやり直し、そのうち、うまく線が貼れると達成感があり、嬉しく思った。けれど、今、このターニラの作品を観ていてはっとした。ここで原発を作る作業のため動き続ける人たちひとりひとりも、まさに自分と同じような状況ではないか」。
 つまり、ひとりひとりは目の前にあるパーツをあやまたず、あるべき場所に設置していくこと、組み立てることを自分のすべき作業としてやっているにすぎない。結果的に出来上がるものが何なのかということは、そこでは二の次である。そうして完成したのが、宮本のもうひとつの作品《福島第一原発神社》の意味合いで言えば、時に人間の力では御しがたく荒ぶる神そのもの=原子力を使った発電所ということになる。   
 この話は非常に示唆的で、同時に、この構造は、今回の展覧会の性質そのものとも呼応するものではないかと思えたのだ。
 つまり、個々の作品は、与えられたテーマを意識して作られ、または選ばれて、会場に設置されるという「作業」の延長線上にある。そのテーマとは、「揺れる大地―我々はどこに立っているのか:場所、記憶、そして復活」という言葉に象徴される、「未曾有の災害後の日本」への問いかけだ。そして出来上がった展示の全体を巡る時、観客がひしひしと感じる、胸を締め付けるようなある種の重苦しさは、その深淵に当事者にしか想起し得ない痛みの記憶をたたえているが故に深く、鋭く、我々自身の「生」への向き合い方を考えさせるものだったのではないだろうか。
 あいちトリエンナーレの総体が、おそらく各作家が思っていた以上に、御しがたい力を持った化け物に変化している。それはテーマという「枠」を予め設けたことも大きく作用しているのではないだろうか。各作品が反射するその問いは、現在のこの国の持つ文脈を背景に、より強く人々の心の内に刻み込まれてゆく。私たちはもう、好むと好まざるとに関わらず、そこを無視して鑑賞することはできない。そのことに気付かされる体験であったという点で、この国際展は自分にとって切実なものであり、稀有なものになっていたように思う。
egg:加々美ふう





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