2014年10月22日水曜日

「まなざし」の邂逅(芝川照吉コレクション展)

芝川照吉コレクション展 ~青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター
2013年5月18日(土)~6月30日(日)
京都国立近代美術館


 人が人をまなざす時、互いに見ているものとは、一体なんでしょうか。もちろんその視線の先にいる私または貴方、あるいはそれを通り越した、背景のどこかかもしれません。
 人がものを見る時、そこには必ず見られるものがあります。そして見られるものは、見るものを正しく映して跳ね返す。ということは、そこにあるのは果たして、相手なのでしょうか。それとも、「私」なのでしょうか。
 京都国立近代美術館で開催中の「芝川照吉コレクション展/青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター」は、一人の人間に対する、さまざまな「まなざし」を感じることのできる展覧会です。
 明治・大正期の大阪で財を為した商人、芝川照吉。彼は当時の美術界において極めて重要なコレクターであり、作家たちにとっての良き支援者でもありました。彼と交流のあった作家らは、洋画の岸田劉生、木村荘八、坂本繁二郎、そして工芸の藤井達吉、富本憲吉等、美術史に名を残す面々ばかりが揃い、そのそうそうたる顔ぶれに驚かされます。展示では彼らの作品と共に、所々でその手になる芝川の肖像や木彫の人形、手紙、果てはデスマスクまでが配され、単なる作家とパトロンというだけでは括り切れない、親しい交流の端緒を垣間見ることができます。
 さて、そのような作品たちの中、ある一部屋で、私は印象的な2人の画家のまなざしに出会うことになります。
坂本繁二郎の《母子》、そして青木繁《女の顔》です。
 彼らの作品はちょうど展示室のこちら側と向こう側で、相対する壁面に数点ずつ、掛けられてありました。この対照的な配置はおそらく、2人が同郷出身であり年齢も同じ、学んだ師も活躍した場も一時期全く重なっていた、「朋友」とも呼べる仲であったことと無関係ではないでしょう。
 まず坂本の作品を鑑賞した私は、モノクロームのコンテ画、《母子》の前でしばらく動くことができなくなりました。
眠る女性と、その傍らに同じ様子で寝息を立てている幼い子供。ふっくらとした頬と尖った唇の柔らかな質感までが、黒一色の繊細な線描による陰影で見事に描き出されています。その無垢で安心しきった表情と緻密なまでの描き込みからは、儚い一瞬をいとおしむかのように筆を走らせる画家の一途なまなざしが感じられ、瞬間、夢の中に包み込まれるような心持ちになったのです。
 その時、反対側の壁面中央からふと視線を感じました。振り返ってみると、そこにあったのが青木繁《女の顔》でした。
 肩も顕わに着物をゆるくかけ、こちらを見返す一人の女性。意志の宿った強い瞳は、しかしどこか不安げで、瞳に射した光の白が際立ち揺れているようです。くっきりとした目鼻立ちに太い眉、何か言いたげに薄く開かれた厚みのある唇。頬には赤みが差し、野性的な力強さも感じられます。
この作品のモデルは、青木の愛人、福田たねという女性とのことでした。
けれど、表情。恋人であるはずのたねのこの表情は、一体どうしたことでしょう?私にはどうも、少なくともこの作品に描かれた彼女からは、愛情というよりは何か不安、困惑といった負の印象が拭えず、またそれゆえに矛盾が生じているように思われてなりません。
 2人の作品は、それぞれに、描かれた者をみつめる画家のまなざしをも映しています。それはつまり彼らの、彼女らに対する思い―『心』と言い換えることができるものです。
目を閉じて眠ってはいるものの、その表情と雰囲気から深い愛情と安心が伝わってくる《母子》において、私たちは彼女らをみつめる坂本本人のまなざしと出会います。同じように、《女の顔》では青木の、力に溢れながらもどこか不安定な、矛盾を孕んだまなざしと。
 そしてこの2人のまなざしは、私たち鑑賞者を通して、時空を越えこの展覧会場で再び出会っていると、言えはしないだろうか。ふと、そんな考えが浮かびました。描かれる人物は描く人物の依り代、まなざしの先にあるのは、その時彼らが見ていた、彼ら自身であるはずだから。
作品からにじみ出る対照的な2人の画家の精神から、私はそんな空想に胸を躍らせました。


egg:加々美ふう

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