2014年10月22日水曜日

イリ・キリアン振付《East Shadow》を見て

イリ・キリアン振付《East Shadow》
あいちトリエンナーレ2013 パフォーミングアーツ公演
2013年9月16日
愛知芸術文化センター小ホール

あいちトリエンナーレ2013は、テーマを「揺れる大地われわれはどこに立っているのか:場所、記憶、そして復活」とし、東日本大震災とその後の世界を強く意識して、日本では好かれにくい政治的・社会的な作品も多く並んだ。数ある芸術祭の中でも稀と言われるほどテーマ性が強く、その文脈から浮かび上がる展示のストーリーや出展作品の特質に揺り動かされたが、同時に個々の作品と丁寧に向き合い、本展のテーマと各作品・作家固有の文脈がどう交わっているのか、そして自身が「どこに立って」作品を、社会を見ているかを慎重に測りたくなった。未だ進行形のカタストロフィからカタルシスを得ることへの罪悪感ゆえである。
その意味では、カタルシス不在の作品で知られるサミュエル・ベケットがパフォーミングアーツ部門のサブテーマに据えられたことは適切だった。世界的な振付家、イリ・キリアンが東日本大震災を受けて制作した《East Shadow》も、ベケットの不条理劇に着想を得た新作である。舞台装置は左半分が寒々とした無彩色の部屋。右半分にはそれと同サイズで同じ室内が映写されたスクリーン。舞台はまず右側の映像上で、壮年を過ぎた2人のシックな男女が、ありふれた日常の交々を半抽象的に踊るところから始まった。
この映像だけのパートはダンス作品としては異例な長さだが、やがてこの男女が実際に登場して舞台の左半分で踊り始めた。映像と実体が併置されることで、「記録対象は常に過去に属する」という映像の性質が痛いほど際立ち、生身の身体のかけがえのなさが煌めく。映像(=過去・死)の比重は実体(=現在・生)を上回るかに見えたが、サビーネ・クップファーベルクとゲイリー・クライストという年齢を重ねた優れた踊り手は、間もなくその2つの世界の境目を見失わせた。
そのイメージを押し広げたのは、劇中で使われたベケットのテキスト『いずれとも知れず』である。
影の中を行きつ戻りつ、内なる影より外なる影へ
不測の自我より不測の無我へ、いずれが先とも知れず……
舞台上のイメージを増幅する言葉。さらに、向井山朋子のピアノが最初から最後まで鳴り続け、轟音が響き破滅が訪れても、過去と現在、またいつとも知れぬ時間をも繋ぐようにリフレインを刻んだ。こうして映像、生身の踊り手、音楽、テキストのすべてが共鳴したとき、舞台と客席の境も決壊し、舞台上に現れた生/死、自我/外界の境目が曖昧な世界が会場全体を浸した。「われわれはどこに立っているのか」という本展の問いが否応なく立ち上がる世界だ。その余韻は終演後も長く続き、今も心のどこかに沈殿している。
 上演中、前述したような3.11に関わるテーマと作品に抱く慎重さを脱ぎ捨てるようにして作品世界に入っていく自覚があった。この慎重さは、非当事者が計り知ることができない経験の大きさに対する恐れにも由来する。キリアンは遠くオランダからやって来て明らかに津波を思わせる映像を直截に使ったが、この作品をあらゆる人生に起こり得る悲喜劇として描くことで、その恐れを超えさせることに成功していた。陸前高田出身の写真家・畠山直哉が、他者の体験を共有できないという事実を飛び超えさせる想像力を喚起できるのが芸術の力だと語っていたことを、祈りに似た気持ちとともに思い出す。
 《East Shadow》が持ち得た力はキリアンとパフォーマーたちの深い思慮と丁寧な思索の結果だろう。自身らが上演するものが「最高の形」と言いながら「そのすべては無意味だ」と断じるキリアンの言葉にそれが滲む。今回のトリエンナーレのテーマ設定を外した場所でも、震災の記憶が薄れた遠い将来でも、色褪せない作品となるに違いない。

egg:神池なお

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