2014年10月23日木曜日

あいちトリエンナーレ2013で「 影 」を見つける。

あいちトリエンナーレ2013
2013年8月10日(土) ~ 10月27日(日)
愛知芸術文化センター会場


日々朝から夕方にかけ我々はアクセくと日々の生活に追いかけ回されている。
体調を気にする時に、痛みを伴ったところから身体は意識にのぼる。
トリエンナーレ会場も愛知芸術文化センターも多層階からなり、疲れ入りながら
隈なく作品を見ようと駆けずり回るわけである。
そんな中で、自分の「影」を見せつけられる作品が何点かある。

「影」は都会生活を送っていると、照度の高い照明下にいると意識することがない。
ダン・ペルジョヴスキ「The Top Drawing」は芸文センター11階西側展望回廊にある。
77mのウォールドローイングである。名古屋栄地区デパートからテレビ塔までを一望とし、名古屋の玄関に聳えるツインタワーまで見渡せるロケーションにガラス面各所にまるで落書きのように水性マーカーでドローイングが描かれている。
作家がサイトスペシックなアートを得意とする彼にとっては、またとない場所である。
彼の紡ぎ出す作品は「言葉みたいな絵を描くのである」それは、言葉以前に「絵」である。見たもののこれまでのいろんな体験を元に、社会風刺として受け止められる。ある人にとっては「可愛く」見え、ある人にとっては「解る」と見える。
これが、夜の帳と共に、私の「影」がもう一方の壁に写し出される。
街を見ていた自分 ドローイングを手探りで「読んでいた」自分の影が刻然と映し出されるのである。
もともと、いつでも消せる水性マーカーで描かれた絵と同じように、自分もその絵と一体になる。
いつでも消えいる人生 読み解こうとしたその言葉も絵も 同じささやかな記憶のなかに消えてゆくのだ。

コーネリア・パーカー「無限カノン」は明るい展示室のあと、中心の柱から放たれる光によって、慣れるまでしばらくの時がある。
イギリスの作家で、各地方都市には必ずブラスバンドがあったが、しかし、すたってゆき、使われなくなった楽器をプレスしてテグスで使った作品である。
「見ることができないもの聞くことのできないものー不可視と不可識」
実際の楽器は歪んでいるのに、虚像である影は「わたしたち現役よ」っていってるみたいに楽器たちの記憶 そして、その楽器たちと共に巡る 私の「影」
私の人生にとって楽器は遠いところにあった触れることなく生きてきたが、音楽は人生に喜びを与えるものであった。こんなに近くに影として寄り添う楽器たちに愛おしさを感じられるとは思いもしなかった、
見入る子どもたちもまるで演奏するように行進するのである。
美しい作品だ。

「影」にもっとも惹かれたのは、クボクワリョウタの「10番目の感傷(点・線・面)」である。
その作品は国立国際美術館で初めて見た。暗い展示室を走り回る強い照度をヘッドに付けたNゲージの列車である。進みゆく線路に覆いかぶさるようなザル、ペン立て、ウラ置きされたゴミ箱 それら諸々の影を壁面に映し出してゆく。その中に見ている私の「影」もある。
もうこの作品には魂を奪われた。いわゆるその場を離れられないのである。

絵画を含む美術体験とは、このように自分の「影」を見る旅だと思うようになった。そのまま、今に至っている。


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