2014年10月22日水曜日

オノ・ヨーコ《生きる喜び》評:届かぬ祈り

2013年8月10日(土) ~ 10月27日(日)
会場:名古屋テレビ塔


個人的な話題で恐縮だが、ここひと月半ほど公私ともに多忙をきわめ、アートに親しむだけの精神的な余裕がない。まったく観に行っていないので今回の課題はパスするつもりでいたのだが、ここにきて一作品だけ観たことを思い出した。ざっくりと書き付けておきたい。
その作品は、名古屋市中心部の目抜き通りにあった。オノ・ヨーコ作の《生きる喜び》という。分野としてはパブリック・アート作品にあたり、通勤の道すがら目にしたものである。
テレビ塔の外側に「生きる喜び」という文字をネオン管でかたどり、夜間のみ発光させるという単純なつくりだが、地上高115メートルに設置された全長15メートルのネオンサインは、独特の存在感を放っていた。通りすがりの私の目にとまったのだから、パブリック・アート作品として充分な発信力をそなえていたと言える。
しかしながら、そこに込められたオノのメッセージは、私にとって苦痛でしかなかった。そして作品のメッセージが苦痛である場合、その発信力は暴力性として増幅される。本当につらい作品だった。しばらく目にもしたくない。
なぜそこまで苦痛を憶えたのかと言えば、オノのメッセージが理念的に過ぎたからだ。
オノ本人は「東日本大震災後の世界に向けた祈りを込めた」と語っている。当該作品に刻まれたシンプルで力強い文言は、ごく一般の都市民にとっては生の実存を問い直す貴重な機会となっただろう。その手のイノセンスは今日日重宝されるし、実際に励まされた人もいたかもしれない。
しかし、疲弊した私には届かなかった。現実性も当事者性も欠いた空想的な文言を投げつけられ 、対照的に自らの苦境を再確認させられただけである。私でなくても、たとえば目の前の平穏や生存を脅かされ追い詰められた人々に、当該作品のような手法は通用するのだろうか。とてもそうは思えない。
オプティミストを自認するオノが、当該作品において真の楽観主義を実践したいのであれば、まずそういった(目の前の平穏や生存を脅かされている)人々に提示してはどうだろうか。東日本大震災の被災地でも、アフリカやアジアにある抑圧と虐殺の現場でもいい。当該作品が出展された国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2013」の会場近くにも、貧困や差別の現場はいくらでもある。
一般的な都市民に向けて、知の雰囲気をただよわせつつ文化人の高みから「生きる喜び」を垂れてお茶を濁すのではなく、もっと別の人々に作品を届け、作品の強度を試すところを見てみたい。
……とは言えオノをフォローすべきところもある。国際展「ヨコハマトリエンナーレ2011」に引き続き国内大型企画展へ招聘された背景には、相応の動員が見込めるという主催者の打算もあるのだろう。そういった出展の向きで、呑気で当たり障りのない作品を求められたのかもしれない。その場合でも、オノがお茶を濁したには違いないのだが、仕事人としての姿勢は評価できる。
  
①これはオノの作品に固有なものではなく、パブリック・アート作品がその定義上そなえている暴力性による。


egg:水餃

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