2014年10月17日金曜日

豊田市美術館「黒田辰秋・田中信行|漆という力」展レビュー

黒田辰秋・田中信行-「漆という力」
2013年1月12日[土]-4月7日[日]
豊田市美術館


 黒田辰秋と田中信行、両者の作品の造形の違いは、単に用途に供するものとそうでないものということではない。確かに箱や状差、棚など、黒田の作品はそのほとんどが、実際に使用することが可能な「道具」であり、また毎日の生活の中で使用することによって生まれてくる新たな美を意識して制作していたことは間違いないであろう。
 それは黒田が深くかかわった「民藝運動」の根幹である朝鮮半島の美術、いわゆる「李朝美術」を模していることからも、日用の雑多な器物が放つ「用の美」を黒田が制作の中心軸に据えていたと思われるからである。
 しかし一方で黒田の作品群からは、朝鮮や日本古来の日用品から影響を受けたであろうこと、道具としてのフォルムを抜きにして、一様にその器物たちが放つ圧力を感じずにはいられない。
 ある作品は空間を溢れんばかりに充填し、ある作品は全てのものを吸い込み、ある作品ははじめから何も無いかのように。
 一方、田中の作品はどれもが滑らかな流線をとり、掴み所がない。
刃物のようにエッジの利いた造形をとっていても、やはりどこか官能的でさえある。
たとえ「道具」としての形をとっていなくても、わたしたちが本来持っている何か、例えば見たことのないものを前にして、なぜか懐かしさを感じるというような・・・
 生まれながらにして、人間に刻み込まれているものを呼び覚ますかのような田中の造形は、黒田の作品と同じく、空間を波立たせ、それぞれが固有の意思を持っているかのような感覚に囚われる。
 造形的な力量を表す単位がもし存在するとして、「道具とそうでないもの」という捉え方を取り払ったとき、両者の作品は等価なのだ。それを感得し得たとき、その物が用途に供するか否かなどということは無意味となる。
 とかく私たちは網膜からの情報を頼りに判断をしがちであるが、空間に対する作品の質量は視覚から得るのではなく、誰もが備わっている血液のようなものでのみ、感じ取ることができるのではなかろうか。たとえ漆という「皮膜」が両者の作品を覆ったとしても。

egg:岩田量平

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