2014年10月23日木曜日

子どもに託す「未来の希望」

ヤノベケンジ《サンチャイルド》
あいちトリエンナーレ2013
2013年8月10日(土) ~ 10月27日(日)
愛知芸術文化センター会場


 栄地下街からオアシス21を経由する地下通路を通ってきた人々は、愛知芸術文化センターの地下入口を入ると、地上2階までの吹き抜け空間で、ヤノベケンジによる巨大な立像、高さ6.2mの《サンチャイルド》を目にする事になる。黄色の放射能防護服を身に付けた胸にはガイガーカウンターを装着しており、その数値は、ゼロを表示している。左手には脱いだヘルメットを抱え、右手には「小さな太陽」を持ち、顔に傷はあるが上を向き、大きく見開いた目で、未来を見詰めている様だ。来場した家族連れや若いカップル、年配の方々が、《サンチャイルド》を取り囲み、しきりに記念写真を撮っている。彫刻と言うには、いかにも人形っぽい見かけだが、いろんな世代の方々に受け入れられている様だ。ヤノベは、東日本大震災を受け、被災した方々や復興に携わる人々の心に、夢と勇気を与え続けるものとしてこの作品を企画した。2011年10月に最初の像が完成、その後2体追加し、全部で3体製作した。今回展示しているのは、2番目の「No.2」である。
 ヤノベは、子供の頃、大阪万博跡地の近くに住んでいた。残念ながら万博自体は終わっており、ヤノベ少年が目にしたのは、多くの建造物が取り壊された後の廃墟であった。未来都市をイメージして作られた万博建造物が破壊された様は、「未来の廃墟」というイメージを想起させ、それがヤノベの創作活動の原点となった。
 その後、ヤノベは、いまサンチャイルドが着用している放射能防護服「アトムスーツ」を製作。これを自身が着て、アートで社会問題を提起すべく、「アトムスーツ・プロジェクト」を実行に移す事になる。1997年、アトムスーツを着たヤノベは、当時、史上最悪の原発事故を起こした、チェルノブイリを訪れた。そこはまさに「未来の廃墟」だった。事故を起こした原発から半径30kmは、居住禁止区域となっており、街はゴーストタウンと化していた。誰もいない街中の遊園地をはじめ、原発火災の消化に使われたヘリコプターやタンクの墓場を訪ねているうちは良かった。驚いたのは、無人の廃墟であるはずの居住禁止区域に多くの老人が住み着いていた事だ。一時は強制的に退去させられたものの、不慣れな土地では暮らすことが出来ずに、元の地に舞い戻ってきたのだ。その中には、母親に連れられた3才の子供も含まれていた。「サマショール(自発的帰村者)」と呼ばれる人懐こい人々に歓迎される度、自身の表現行為が、如何に薄っぺらなものであったかを思い知らされ、ヘルメットの中の顔は、苦渋で歪むのだった。
 芸文10階にあるヤノベの作品の展示室の入り口には、ひとつの写真が、掛けられている。チェルノブイリの廃墟となった保育園で、人形を手にするアトムスーツ姿のヤノベケンジである。瓦礫が散乱する部屋の壁には、以前、保育園児が描いたであろう小さな太陽の絵がある。これが、《サンチャイルド》の原点である。以後、ヤノベの作品作りは、変化を見せる事になる。シニカルで批評的な製作が、よりポジティブな表現へと変わるのである。そうすることがヤノベにとっての贖罪だったのだ。
 3.11の震災・津波と原発事故に衝撃を受けたヤノベは、今アートに可能なのは前向きなメッセージを発することであると考え、「恥ずかしいほどポジティブ」な作品の構想を練る。《サンチャイルド》の製作である。
 正直、初めて《サンチャイルド》を見た時は、そのあまりに玩具的な表情や作りが、安易な製作態度に思えて、好きにはなれなかった。しかし、ヤノベのこれまでの創作活動や、チェルノブイリでのエピソードを知った時、作品が別のものに見えてきた。ヤノベが、あの保育園で手にした人形の顔が、重なってくる。右手には、子供達が描いた「小さな太陽」、顔のすり傷や絆創膏は厳しい現実と対峙する事を恐れぬ勇気、そして大きく見開いた目は、「未来の希望」。ヘルメットを脱いでも放射能の不安が無い、安全な未来への期待だ。

※参考文献:「ULTRA」「SunChild」「YanobeKenji 1969/2005」「トラやんの大冒険」


egg:多田信行




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